第9章「矛盾とコンフリクト」2節

作動と観察の差異──「矛盾」の場合

 オートポイエシスと観察(自己観察)との区別が有効であるということは、本章で取り上げられている矛盾の問題を考察してみれば明らかとなる。矛盾は、オートポイエシス的オペレーションが問題なのかそれとも観察が問題なのかによって、まったく異なる機能を果たしている。

  • オートポイエシス的オペレーション(‥)のコンテキストにおいては、矛盾は、接続するオペレーションを選び出す、ある特定の形式となっている。人びとは、矛盾であるとは経験されない事態に対するばあいとは別様に矛盾に反応しているのだが、しかし人びとは矛盾に反応しているのである。
    ビュリダンのロバでさえ、自分が決定できないということに気づいているとしても、餓死せずに生きながらえるであろう。というのも、そのばあいビュリダンのロバは、まさに自分が決定できないということに気づいているがゆえに、何かをしようと決心するからである!
  • これに対して、観察者にとっては状況は異なったものとして現れる。観察者にとって、しかも観察者にとってのみ、矛盾は〈決定できない〉ということを意味している。
    観察者は、矛盾した事態を観察するさいに、区別を用いて二つのことがらを識別しても、一方を表示すると他方の表示が排除されることにならず、したがっていずれか一方を表示することができないがゆえに、観察者は、観察を続けていくことができない(しかしそうであるにもかかわらず、生き続けることはできる)。
    観察は矛盾によって停止させられるのであり、観察の観察のばあいにはなおさらそうである。しかしながら、観察が矛盾によって停止させられているのであれば、まさにこのことは、何かをおこなうための根拠として十分であるといってよい。


このような事態[=作動と観察の区別]を生活と科学(‥)の区別に起因すると考えることは、そうした事態のはなはだしく誤った具象化であろう。オートポイエシスと観察の差異はきわめて基本的な差異であり、オートポイエシスも観察も、すべてのオートポイエシス的システムのなかに見いだされるのであり、観察することや観察に依拠した予測や説明を専門とする──科学のような──システムのなかにも見いだされるのである。

すべての自己準拠的システムにおいて、矛盾は、二重の機能、すなわち遮断と誘発という機能を果たしている。つまり、矛盾に突きあたっている観察を停止させるという機能と、ほかならぬ観察の停止を手がかりとして、まさに観察が停止していることによって意味のある接続オベレーションを誘発させるという機能である。そのようにして、おのずと結論されるとおり、矛盾というものば、オートボイエシスと観察を相互に連繋し、これらの二つの種類のオペレーションを媒介し、つまり、オートポイエシスと観察を分離すると同時に結びつけている、ゼマンティークの一つの形式にほかならない。

というのも、観察に接続するオベレーションが遮断されるということは、他面では同時に、そのばあいまさにその再開のいかんが間題となっているオベレーションの作動が開始するということの前提条件なのだからである。

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つづけて:

進化は観察し得ない

[「矛盾」について議論すると、多くのひとは「弁証法」のことを思い浮かべるだろうが、しかし]以上の考察に基づいて、矛盾の「弁証法的」機能についてあらためて論じようとしているのではなく、矛盾の「弁証法的」機能についての分析は、進化理論のパースペクティヴに取り替えられうると考えているのである。

進化は、自己再生産と観察を前提としている。進化は、それまでとは異なる自己再生産がおこなわれることによって成し遂げられる。したがって、観察にもとづいて進化したかどうかが結論されるわけではないと言ってよい。進化は、論理的に整然とした過程ではない。進化が前提としているのは、進化を観察しようとしてもその観察は失敗に終わる(詳しく言えば、観察するシステムそれ自体が点検しうるような仕方では進化を観察しえない)ということであり、また、そうであるにもかかわらず、進化という事態が前進を続けているということである。進化は、観察によっては見極めえないことがらをとおして進行している。進化は、観察によって見極めがたいことがらによって、形態発生のチャンスとして選り分けられているチャンスを利用している。[661]