朝カル講義準備。http://socio-logic.jp/luhmann_acc/
この本、2-2で、論文集『法の分化』(1981)に即したかたちで、やや詳しく〈記述理論/規範理論〉〜〈システム理論/決定理論〉について論じてるね。
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2-1-3 「「手続きによる正当化」論から「法システムの分立化」論へ」
2-2節以降で始まるルーマン批判の最初の手がかりは、二つの時期の主張の「違い」に求められている。
【引用1】 かくてわれわれは、実定性の概念を つぎのような定式であらわすことができる。すなわち、ここで法は、
- 決定によって(選択される)ばかりでなく、
- 決定によって(それゆえ、コンティンゲントで変更可能な形において)妥当する
、と。法を実定的なものへと組み替えることによって、法のコンティングンツと複雑性は著しく増大し、その結果、機能的に分化した社会の法需要に対応しうるようになるのである。(『法社会学』)
【引用2】 機能的な分立化という条件の下では、
- 法の妥当は、〈実定的〉にのみ、すなわち法自体によって制定されることを通してのみ可能となる。
法は、法をいかに再生産するかを、言い換えると、いかに法をもって或る法を棄却し他の法を獲得するかを規制しうるのであり、また法のみがそれをなしうるのである。法を導入する力をもつような外部の審級とか権威とかいうものはない。(『法の社会学的観察』1986)
2-3-1 「正義の問いへの位相」
正義論の三つの水準:
[180] かくて、今日「正義」を問おうとする者は、
- 社会制度の各領域において「第一次的基準」となっている価値の作動を問い、また、
- それら諸領域それぞれの全体的作動を「正義」という観点から反省し、さらに、
- その正義を評価する「基準」そのものを評価するという、
二つのレベルの問いを区別しつつ、問いの全体的な構えを立て直さねばならなくなっているのだ。
2-3-2 「システム論的正義とオートポイエーシスの隘路」
【引用1】『法の分出』1981
[185] 以上のようにスケッチしたシステム理論的意味において正義なることとは、
- 諸規範が実際に秩序づける働きをもって存立しているという事実のみにあるのではないし、また、
- それを超越する理念にあるのでもない。
システム理論が複雑性という概念をもって両者を強いて同時に表現するとき、それは、この二つの立場を統合しているのであいる。(『法の分出』1986, )
[186] 所与の法素材は、それの複雑性をもってまさにもはや恣意的には構成されえない秩序をなしており、その結果、この秩序が、何かを否定をしたり可能性を創出したり自己を制限したりという内的なダイナミズムを生み出している。法というものは、真理-コードや貨幣-コードがそうであるように、自ら自身によってのみ置き換えられうる『自己代替的』秩序に属しており、それゆえ、自らの変動を自己の内から生み出さねばならない。
- 正義という基準は、法のこうした自己選択と自己代替のプロセスにコントロールの形式(Kontrollformel)を与えるのである。(『法の分出』1986, S.393)
【引用3】『法の社会学的観察』1986
[187] 「正義」のゼマンティクは、これまでのところ、社会システムの進化が引き起こしている変化に対応し切れていない。……システムが高度に社会に適合した複雑性をもち、また、高度な変化のダイナミズムをもつようになると、決定と決定とを一貫して調和させてゆくということは、ますます困難になる。だから、法ドグマーティクの相対的に自立した概念構成の助けを借りるという回り道は不可避であろう。この問題を見失ってはならない。したがって、正義は、〈困難性の次元〉とでも付随的に定義するしかないかも知れないのである。それを困難性の次元というのは、法システムの適合的複雑性の下で決定の一貫性が求められるからである。
- 【1】では正義が「法システムの適合的複雑性」と規定され(、全体社会と法システムの界面に位置し)ていたのに対し、
- 【3】では法システムに回収されてしまった、と著者は述べるが、
- 「適合的複雑性」という規定は、本書と同じ1993年に刊行された『社会の法』でも使われており、正義と法解釈学の分割も維持されて(おり、章立てにも反映されて)いる。
[191] つねに精密に議論を進めるルーマンが、いったんは正義を第二のレベルに位置づけながら、再びそれを法システム内部に回収してその問題の射程を切り詰めたというのは、考えてみれば奇妙なことである。
そうではなく、読解がおかしいのである。
[193] われわれが見てきたような「正義」をめぐる問題圏は、法システムそのものを「超え」たレベルからシステムの作動をコントロールするものとして、すなわち、法システムにおける既存の決定産出プロセスについて、その前提を再吟味しつつこれを不断に改変し、新たな産出プロセスの軌道へとそれを転轍させる契機として、その位置価が定められねばならないということだ。
常識的に考えて。
「法システムにおける既存の決定産出プロセスについて、その前提を再吟味しつつこれを不断に改変し、新たな産出プロセスの軌道へとそれを転轍させる」ような活動は、典型的には法的実践であって、したがって法システムの一つの契機として生じることだろう。