上掲報告要旨たちを割り付けしつつ考えたことのメモ。
阿部さんからは、次の質問が提出されていたのだった。
今後ルーマン派はどう 規範性Normativität 問題にとりくんでゆくのだろうか?
http://socio-logic.jp/lrev10mouri03.php#toc3
法は規範的なものである。それに対して「記述的」に向かったとしても、対象(=法)の規範性が無くなる訳ではない。だから、記述的な法理論における「記述-と-規範的なもの」との関係はどうしても込み入ったものになる。
さて。
この論点については 検討会当日にはほとんど議論が深められなかったのだが、改めて 自分が提出した報告要旨を見てみると、私はすでに これに関わる論点を一つは提出していたのである。
すなわち私は、『社会の法〈2〉 (叢書・ウニベルシタス)』第8章「論証」I & II節の議論のアウトライン(要約)*を提示したうえで、
- 社会学的観察は、このような意味でそもそも「論証について規範的な主張を為す」などということを目指していない。
逆にいうと、実践哲学的な論証理論のほうも、「実際に実務家がおこなっている論証実践をちゃんと記述しよう」などという目標は持っていないのでは?なので、そもそも両者は「ライバル」の関係にはない。[...]
http://socio-logic.jp/lrev10mouri00.php#toc28
- →法実務家にとって、「自分たちが実際にやっていること」をよく見もしないでおこなわれる論証理論による「べき論」が、「外在的で迷惑な建前論」として受け取られることは大いにありうること。
逆に、法実践の的確な社会学的・経験的記述を為しうるなら、法実務家の反省に役立つことがありうるはず。(→社会学的啓蒙)
と書いていたわけである。
- 著作の章立てはこちら:http://socio-logic.jp/baba/preview/recht.php
この点を(自分で)ちゃんと拾い上げて、次のような形で提題しなおせば、もうちょっとまともな討議ができたかもしれない:
- 「記述に指向するルーマン理論 v.s 規範に指向する実践哲学的論証理論」という対比は不毛であって、
- この対比は、「それぞれの流儀が(たとえば)「実務家の実践」と──ひいては(広い意味での)法実践あれこれと──どのような関係を取り結ぼうとしているのか」という問いを媒介させた上で 行ったほうが生産的ではないか。
「アウトライン」中でも参照したように、システム論的法論とは──ルーマンの自己規定に従うなら──法システムを「その作動の様式において主題化」する(『社会の法』8章II節)ものである。
言い換えれば、法的諸実践を「その様式において」捉えようとするもの(すなわち、「法実践は 実際のところ どのように行われているのか」ということを・それらの「おこなわれ方」に即して*捉えようとするもの)。
*法システムのオートポイエーシスの把捉という課題を掲げるなら、このような制約が付かざるを得ない。
いま、議論を「論証」という法実務家の実践に限定すると;
- 一方で。 システム論的論証論は、法実務家の自己理解よりも遥かに複雑な、論証実践の記述を与えることになる。
- したがって、こうした作業の利得は、そうした記述の「複雑さと見通しの良さ」に──そして、それが、(彼/女たちにとっては自分たちの/他の人々にとっては彼/女たちの)「仕事のより深い理解」を与えることが出来るか否かに──かかっている。
- 他方で。実務家にとってそれは、それが「複雑すぎる」というシンプルな理由だけからしてすでに、「実務に直接に役に立つ」ものとなるとは考えにくい。
これに対して、実践哲学的論証理論の場合は。
- 一方では。それは──実務の実情と関係なしに──シンプルな規範的指針を与えることが出来る。
- その意味では、それを「実務家自身が 実務に役立てる」ということは充分にありうることである。
- 他方では。それは、実務に対し、実務にとって外在的な観点から設定された「規範的方針」を持ち込むことになる。
- したがってそれは、実務にとって迷惑な・阻害的な・支障を来させるものでありうるだろう。
そして、規範理論が、後者の問題を自己反省する、ということは、ふつう無い。それを見ると私はしばしばこう言いたくなる: 「規範理論は反省しない」
この様に定式化したうえで、再び阿部さんのこの主張=疑問に戻ってみると:
目的論性の徹去したルーマン型社会理論は実践哲学/正義論 [id:100f] と\規範的観点を [2007:121fn5] 協働・摂取できるか。
http://socio-logic.jp/lrev10mouri03.php#toc2b
単なる社会現象性を 超/越えん とする何らの目的論性も残さずただ「自らも社会現象であること」に徹するだけの実践哲学が果して協働・摂取パートナーとなりうるか?
この問いかけに対しては──ベタなレベルでは──、つぎのように簡単に応える(〜反問する)ことができる:
- 実践哲学的〜規範的な議論が、「記述的なもの-と-規範的なもの」をシンプルに対比させることでもって、「ルーマン理論への問いかけ」を為すように私念しうるのは、単に、規範的な議論が 自ら-と-法実務家の論証実践-との-関係を反省せずに済ませているからに過ぎないのではないか?
- 少なくとも、社会学的-社会システム論的論証論は、それが「法実践の記述」を目指すのと同様に・それと同じ権利・同じスタンスでもって、
- 「実践哲学的論証理論は 何を・なぜ・どのように行っているのか」とか、
- 「社会学的-システム論的論証論自身が 何を・なぜ・どのように行っているのか」などといった問いに、記述的に取り組むことが出来る。
- 実践哲学的論証理論は、果たして、これに相当するものを与えることができるのだろうか。
そしてまた、もう一歩だけ議論を進めた回答案としては、次のようなものも提起できる:
逆にまた、同様の水準でもって、次の問いを投げかけることも出来るわけである。
- 実践哲学・正義論は、社会学的・社会システム論的な 法秩序・法実践の記述的解明-と共同/から何かを摂取-できるのか。
- 仮にできるのだとすれば、どのような道筋でもって それは可能だというのか。