ブプナー本探索

現代哲学の戦略

現代哲学の戦略

超越論哲学と分析哲学―ドイツ哲学と英米哲学の対決と対話

超越論哲学と分析哲学―ドイツ哲学と英米哲学の対決と対話

カント・現代の論争に生きる〈上〉

カント・現代の論争に生きる〈上〉

最初の二つに「超越論的解釈学」についての論文がおさめられていたはず。てことで探しているのだが、どっちも未開封ダンボールの中にあるのかな。


■20090530 二番目のは発見。

あと代わりにこれが。

ことばと弁証法 (哲学叢書)

ことばと弁証法 (哲学叢書)


■20090530 一番目のも発見

懐かしい。学部時代に繰り返し読んだ本であります。主として70年代に書かれた論文を日本で編纂した論文集。

2,3,4章と『超越論哲学と分析哲学―ドイツ哲学と英米哲学の対決と対話』所収論文は「おなじ」もの。
ブプナー『現代哲学の戦略』
  • 第1章 哲学は何でありうるか、あるべきか、あってよいのか(1978)
  • 第2章 哲学的論述の構造(1974)
    • 超越論的哲学の本質
    • 超越論的哲学の構造
  • 第3章 超越論的解釈学は可能か(1975)
    • 論理学と超越論
    • 自己関係性の形成
    • 解釈学の可能性
  • 第4章 超越論的論述の構造としての自己関係性(1982)
    • 証明(Demonstration)か、それとも論述(Argumentation)か
    • カントの演繹の新しさ
    • 自己関係性の構造
    • 論述の歩み
    • 実用主義的な解決
    • 究極的基礎づけは可能か
    • 未解決の問題


「超越論的論述の形式的構造」としての自己関係性について:

[『論考』のウィトゲンシュタインの場合でいえば、]命題の可能性の条件を反省する場合で、しかもなおかつ、この条件が同時に反省そのものの条件でもあると承認されるような場合には、「超越論的」という言葉が用いられる。反省のこの固有性を 自己関係性(Selbstbezüglichkeit) と名づけることができる。〈何らかの諸前提へ向けての 何らかの〔無前提的な〕反省が生ずるのではない〉ということが、自己関係性でもって表現されねばならない。決定的なのは、

  • 解明される前提が 解明する行為にも妥当すること、
  • そしてこのことが、反省のなかで反省とともに明らかにされるということ

である。したがって、自己関係性が表すものは、形式的・構造的な契機である。自己関係性それ自体が、自己意識や自我の反省的認識に関係するわけではない。[p.60]

超越論的考察のさらなる制約について。

超越論的条件

 超越論的考察で問題になるのは、認識を例外なく可能にし、具体的な認識の生ずるいかなる場合にも前提できるような土台の獲得だけである。そのさい、この土台の反省的な確証において、この確証そのものが認識の可能性の条件に依存しているということが明らかになる。[...] 〈必ずしも全ての前提が認識の可能性の超越論的条件であるわけではない。この超越論的条件を解明する反省に対しても妥当しつづけるものだけが、その超越論的条件なのである〉。
 [...]
 認識のさまざまな前提が、その可能性の不可避的な条件として超越論的であると評価されるか否かは、その役割の認識も前提の制約的性格に服従するかどうかに懸かっている。[...] [認識のさまざまな前提を反省する際に、]絶えず新しい前提が反省されていく単なる遡行には、それ自体 超越論的なものは何もない。だが、反省が、諸前提の位階を見積もりながらも、まさにこれらの前提そのものから もはや免れ得ない場合、これらの前提は、その前提を解明する反省をも共に構成している。このような反省だけを超越論的と呼ぶことが出来る。というのは、この反省は、それ自身の行為において 自己関係性の形式的構造 に合致するからである。[p.67-68]

こうした主張に対してなら、ルーマンは、非常によく似た「自己関係性の形式的構造」を持つ議論を対置することができてしまう。すなわち:

  • 「ある社会的秩序のもとで行われる或る社会的諸実践/或る諸実践によって構成される或る社会的秩序」
    について記述する、という社会学者の社会的実践は、それ自体、
    「或る社会的秩序-のもとでの/を構成してしまう-諸実践」
    として、生じざるを得ない*。
    (こうした意味で、社会学者が その対象について述べる事柄は、社会学者自身の実践に対しても言えなければならない。)
「違う」のは、べつにここで「認識」が問題になっているわけではない、というくらいのこと。
* 『社会の学』ISBN:3518286013 というタイトルは、まさにそうした事情を述べている。(こうした事情「だけ」を述べているわけではないが。)
ついでに、もっとシンプルなヴァージョンも挙げておこう。
  • いかなる社会的実践も「理解」のもとで生じる。社会学もまたしかり。
    (したがって、社会的実践の「理解」可能性は──したがって「意味」は──、社会学の基礎的な概念である。)


だから、ブプナーは気軽に考えているけれども、[非-超越論的なプロジェクトであるルーマン型の]システム理論-と-超越論[的解釈学という構想]との差異・距離を描くことは、実は けっこう難しい仕事なのである。ブプナーは、ほんとうならば、こうした議論の さらに先のところに ようやく現れてくる、システム論と超越論とのもっとずっと微妙な(しかし決定的な)差異 に取り組むべきだったと私は思う。


いま、こうした観点から ブプナーを読んでみると、もうただただ残念な感しか残らない。切ないことである。