街で噂の連載論文(の、その1)を複写してまいりました。
村井則夫(2011) 「範疇と超越 ──ハイデガーにおける超越論性の思考(1)」 in 『思想 2011年 09月号 [雑誌]』(No.1049)、 岩波書店 |
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序 超越論的思考の刷新
課題設定
本論では、『存在と時間』(1927年)に具現化された「存在の問い」を構成する複数の要素を吟味しながら、ハイデガーの思考の背景となった新カント学派、生の哲学、現象学との対照のうえで、超越論的思考の特質を検討していくことになる。
- 新カント学派に継承されたカント的意味での超越論的思考から発して、解釈学における生の事実性の問題を取り込みつつ「現象学」の名称の下で超越論的思考を強力に再統合していくハイデガーの思考を、多様な哲学的単位の創造的な複合として理解することがここでの目的である。
- 判断と範疇、悟性と感性、事実性とア・プリオリなど、超越論哲学の主要な概念を20世紀の知的環境に照らして再考しながら、ハイデガーにおける超越論的思考の変質を辿ることが、ここでの課題となる。
- そして最終的に、(以下略)
(pp. 34-35)
四 超越論的論理学の展開 - 1 超越論的演繹の現象学的解釈
超越論的論理学から現存在分析へ。
…つまりハイデガーは、悟性の統覚に最終的な根拠を求めるカント──『純粋理性批判』第二版のカント──においては、伝統的な能力論と、そこに見られる狭義の主観性概念が足枷となって、範疇の理解もまた主観の悟性能力の構成契機と捉えられ、範疇の根源的・存在論的意味が見失われたと考えるのである。そして、その克服のためには、伝統的な能力論に拘束されることなく主観性の概念を根本的に捉え直す「主観的演繹」の課題──超越論的演繹の中でカントが放置した問題──の貫徹が要求されるが、この主観的演繹の現象学的展開こそが、ハイデガーによって「現存在分析」として実現されるものであった。
超越論的論理学の主題的地平の内では、現存在が存在論的な解釈の対象となるのであり、超越論的論理学の主題は、現存在の超越の存在論となる
という大胆なテーゼは、このような文脈を前提として、初めて理解可能となるだろう。(pp. 50-51)
結 語
おじさん、こういうのはちょっと苦手だな...
絶対的静止点をもたず、自身に回帰しながら自己を触発する時間性は、触発しつつ同時に触発されるものでありながら、触発と被触発の同一化を許さない不断の差異化である。そのため純粋自己触発としての時間は、一切の外部を持たず、自己のうちで自己を滑落させ続ける運動であり、同一性と非同一性の同一性といった弁証法の彼方で、同一性と非同一性の非同一性とでも言うべき事態を体現する。そして、存在者と存在の差異として表現される存在論的差異は、時間性を考慮しながら規定し直すなら、もとより実体的な二項間の差異などではなく、存在了解と存在の意味との超越論的差異であり、さらに正確には、存在了解の遂行そのものの内に含まれる差異性、つまり現存在の「現」そのものの自己振動ということになるだろう。(p. 54)