『概念分析の社会学』に寄せられたご質問を検討中。
第4章 喜多加実代「触法精神障害者の「責任」と「裁判を受ける権利」─裁判と処罰を望むのはだれなのか」
in 『概念分析の社会学 ─ 社会的経験と人間の科学』
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1 精神障害と犯罪をめぐる争点
1-3 責任追及と裁判の要求
■課題の最初の定式:
本章で検討したいのは、こうした[心神喪失者等医療観察法の導入前後における、精神障害と犯罪を巡る]議論のなかでしばしば言及される
「精神障害者自身が責任追及や裁判を望んでいる」といった主張である。
[…]
これらの主張は、
- 一方では観察法に対する批判として、他方では観察法を必要とする理由として
両方の立場から言及されている。しかし、観察法をめぐってこの主張が援用され、そのような主張があることだけが指摘されるとき、
- 刑罰かそれ以外の司法的処遇か
という議論の土俵が設定されやすくなる。すなわち、行為に対するなんらかの責任と 応報的処遇が前提されやすくなっている。
実は、[ここでは省略した四つの引用のうちの]一つ目の池原毅和及び2つ目の佐藤幹生の論は、こうした前提で触法精神障害者の応報的処遇を考えることにむしろ反論しようとするものである。そうした反論を用意させるほど、当事者のこのような主張が説得性をもって流布している状況があるということでもあろう。
2 責任追及や裁判の要求とループ効果
2-1 ループ効果としての状況の把握
■課題の設定しなおし:
「精神障害者自身が責任追及や裁判を望んでいる」
という主張をみると、ここでループ効果が生じているように見えるよね。つまり、次のように:触法行為を行った場合に責任がないとみなされ不起訴となる可能性がある人々が、そうした事態を不当とする見解が出てくるなか、責任を担い裁判を受ける権利がある人々として自らを意識し、「変更」を求めている(p. 103)
でも「責任がないとみなされている人々」というのが 実際のところ どんなひとたちのことなのか、というのを考えてみると、事はそんなに簡単じゃないというのがわかるよ。- 観察法に賛成・反対する両方の人たちが、同じように「責任追及や裁判の権利の主張」を云々しうる、というのはいったいどういう事態なんだろうか。これを検討するのが本稿の課題だよ。
2-3 責任追及と裁判を要求する言説的実践の分散
■課題の最終定式:
ここから検討したいのは、
責任追及や裁判の権利を求める当事者の主張が、
- どのような議論のなかで どのように使われるのか、
- そこで 誰が当事者や非当事者となっていくのか
- 当事者とされる人々が そのように主張することによって 何をしているとみなされるのか
ということである。
- まず第3節で、責任追及と裁判の権利の要求が、観察法への賛否両方の議論のなかで利用可能になっていることを示し、分類の変更を求める主張がどのように使われるかを検討する。