この章むつかしいわ。
第三章 道徳性の実存論的-存在論的基礎──『存在と時間』におけるエートスの学
- 1 善悪に基づく責任概念に対する存在論的批判
- 2 自己統制と道徳的懐疑
- 3 責めある存在──道徳性の実存論的基礎
- 3-1 責めの実存論的分析──非力さからの出発
- 3-2 選択と自由
2 自己統制と道徳的懐疑
自己統制下にない環境上の要因が道徳的評価を左右することは否定し得ないのであれば、行為者の環境依存性を単に道徳を脅かすものとしてではなく、道徳的責任を負いうる存在者の存在様式として認め、その存在様式の中に位置づけていく必要があるのではないか。(p. 127)
ごもっとも。
中間的なまとめ:
ハイデガーは、
- 現存在は自らの存在を意のままにしていないという被投性の側面と
- 現存在は自らの存在の根拠であることを引き受けるという企投の側面の
内在的連関を問いたずねる中で、責め の本来の意義を求めていく。その中で、ハイデガーの議論は、「責任を感じる」という責任感受的存在者の存在論的分析としての意義を獲得するだろうし、意外にも、その本質部分においてカント倫理学の実存論的展開であることも明らかになるだろう。(p. 130)
4 良心と決意性
5 他者の問題──道徳性の基礎付けの帰趨
「独我論」なる語の意味がわからぬ。