第二章 行為と自己理解──行為者性に対する実存論的アプローチ
- 1 行為とは何か──議論状況の概観
- 2 行為能力の理解──理解の存在者的意味
- 3 目的であるもの・有意味性・世界内存在──理解の存在論的意味
- 3-1 目的であるもの
- 3-2 有意味性
- 3-3 行為者性に対する実存論的アプローチ
- 4 行為の共同性と自己理解──世人論の射程
- 5 動物でもなく主観でもなく──不安再説
1 行為とは何か──議論状況の概観
行為における固有の「視(Sicht)」[つまり配視(Umsicht)]は、観察的に事物を眺めやることではなく、まさに単一の事物の感性的知覚として特定されるような作用を行わない。だが、かといって、配視は、そうした作用よりも曖昧、盲目的、衝動的だということはなく、むしろ、あまりにも高度に構造化されているからこそ単純な感性的知覚としては把握できないのである。(p. 69)
いいこと言った。
でも、そういうの どうやって研究しますかね。
H・ドレイファスによれば、
ハイデガーとメルロ=ポンティは、実質的に、身体かされた技能的対処者は、ギブソン──彼はメルロ=ポンティに影響されていた──がアフォーダンスと呼ぶものに直接的に応答すると考えている。食べ物は食べることをアフォードし、ドアは入ることと出ることをアフォードし、床は歩くことをアフォードする等というように(Dreyfus 2005, 12)。
2 行為能力の理解──理解の存在者的意味
- 「自己知」 vs. 「気付き(awareness)」
- ふたたびアンスコム
つまり、ある意味で真偽について語りうる限り、「知識」の性格は(認識から区別された)実践的行為の場面でも残り続ける。(p. 77)
- ふたたびアンスコム
- vs. 「理解(Verstehen)」
[…] 行為能力の非明示的理解に行為者性の柱を見出すやり方は、内観的手法に代わって、行為能力 と 存在者の自己呈示 の志向的連関 に行為の在りかを見出す現象学的アプローチのひとつの特徴と言って良いだろうし、アフォーダンスに基づく行為論とも部分的に一致を見るところである(河野 2007, 49)。
しかしながら、ハイデガーが「理解」概念によって解明しようとしている事柄はこの先にある。(p. 80)
- 理解の存在者的意味: 行為能力の理解。「私は何をできるのか」の答え。(ex. ハンマーで釘を打てば木材を接合できる)
- →それを踏まえたうえでの準拠問題(=理解の存在論的意味): 「意識存在」でも「動物」でもない、現存在に固有のあり方とはどういうものなのか。(→世界内存在)
3 目的であるもの・有意味性・世界内存在──理解の存在論的意味
- 「自らが習熟していくものを 自らが構成するということはできない」(p. 91) いいこと言った。
中間的なまとめ。
[…]行為能力に精通しており、或ることを「私はできる」と存在者的に語りうる存在者(行為者)であるためには、…、簡略に言えば、次の二点が、その「私」の存在性格として認められなくてはならない。
- 私は、現存在として、自らの存在を 目的であるもの[Worumwillen] として理解している。
- 私は、現存在として、この 目的であるもの を自己観察によらずに 情態的に理解している。(p. 94)
- 「家を建てること」が終局的な目的だとしたら、人は行為することができない。 →第一篇第四章(世人論)
- 世界の内部に存在する道具や事物のほうからの反照的な自己理解は、「意識の作用」ではない。 →第一篇第六章(不安論)
4 行為の共同性と自己理解──世人論の射程
- 予備的な問い: 「自分が行為の当事者であることを 非明示的に理解する仕方」とはどのようなものか。
(38) 以前のドレイファス(Dreyfus 1991)には、技能的交渉、行為の共同性、自己理解 の相互連関を探求する姿勢が随所に見られた。しかし、より最近のドレイファス(Dreyfus 2005)は、彼自身の反表象主義を推し進めるために、現存在に固有な「自己」の理解──つまりは実存──が ハイデガー哲学において果たしている中心的役割を度外視する傾向が顕著になっている。(p. 229)
こんなところに罠があるとは・・・!
5 動物でもなく主観でもなく──不安再説
- 「退屈」(『形而上学の根本問題』(1929-1930 冬学期講義))
この講義で、「不安」ではなく「退屈」という情態性を取り上げた事情について:
『存在と時間』において、私たちがさしあたってたいてい日常的に私たちの世界の内で自らを動かしている仕方を解釈することを通じて世界現象の最初の特徴づけを試みた(GA29/30, 262)
ことを回想している。そして、
しかし、この解釈によって、スプーンやフォークを使用したり、路面電車に乗ったりする点に人間の本質が存すると主張し証明しようとすることなど、私には思いつきもしなかった(263)
と読者側の反応を嘆いている。そこでの問題はあくまで「世界」現象だったのであり、この点を明らかにするために、ハイデガーはこの講義で、『存在と時間』における日常性の解釈学の道の代わりに、人間と動物(および石)の「比較考察」(ebd.)という新たな道を選ぶのである。(p. 230)
そこは動物に逃げずに正面から突破しようよ!!