池田喬「行為と世界──初期ハイデガー哲学の研究」

これ読めませんかね。>誰か


残念ながら、BookPark には載ってないみたい。


いろいろ気になるけど、とくにこのへんとか 気になります。[改行引用者]

 第四章「ハイデガーと根拠への問い──『存在と時間』第二篇における本来性の概念をめぐって」では、現存在の本来性を、公共的に真と看做された知識の根拠を問いつつ、自らに固有な行為を決意して遂行するあり方として明らかにしていく。この解釈の確証のために本論では、『存在と時間』の「選択」および「根拠」の概念とともに、これらの論及のモデルとなっているアリストテレスのフロネーシスに対するハイデガーの解釈を検討している。それらを通じて本論がこれまでのハイデガー研究に欠けている解釈上のポイントとして提起するのは、

  • 一般的規範に従って平均的に行為する非本来的自己から自ら行為の根拠を問う本来的自己への「実存的変様」は、
    • 準-理論的なふるまいから
    • 配慮的に気づかいつつある存在者との根源的な──存在者をそれが<何のために>あるのかという道具的存在性の根拠から暴露する──存在連関立ち戻る
    • 存在論的>な変様だ
      ということである。

このようなハイデガーの根拠への問いは、決して基礎付け主義の実存論的な繰り返しではなく、むしろ、

  • 最も固有な自己なるものも
    • 自らが選択しうる諸可能性自体を選ぶことはできず、
    • 公共的に解釈されたものを聞き学んで獲得するしかない

という 現存在の被投性の強調にこそ主眼がある。
本論ではこの点を、ハイデガーの良心論が、自己基礎付け的な反省的意識に依拠したカント倫理学の批判となっていることを示すことで、明瞭にしている。ハイデガーは、根拠付けについて語ることで、理性的存在者の卓越した能力を思われているものに立脚するのではなく、むしろ全く逆に、人間的現存在の「非力さ」へとあらゆる哲学的考察の出発点を向け変えるよう要請しているのである。

http://www.l.u-tokyo.ac.jp/cgi-bin/thesis.cgi?mode=2&id=598

最後のところは ちょっとヴァッティモ風?