涜書:入谷『ポスト形而上学時代の時間論』

痛み止めで朦朧としているのでハイデガー本でも。返却期限は 11/11。
2008年にでた本ですが、なぜかチェックが漏れてました。2004年に大阪大学に提出された博士論文とのこと。

図書館歩いててたまたま手にとっただけなんだけど、「現在時制と完了時制の二重構造」というタイトルの節があるね。ちょうど調べようとしてたことが書いてあるといいな。

ハイデガー -ポスト形而上学の時代の時間論-

ハイデガー -ポスト形而上学の時代の時間論-

  • 第1章 ハイデガーの時間論の起源と展開──アリストテレスから出発して
  • 第2章 有限性──『存在と時間』における死の遠近法
    • 第1節 現存在分析論の主要テーゼ:「存在者的に最も近いものは存在論的には最も遠い」
    • 第2節 死の実存論的分析とその概観
    • 第3節 死の実存論的分析の前史──死はいかにして問題となるのか
    • 第4節 分析の出発点──「近さ」と「遠さ」の両立不可能性
    • 第5節 実存論的な遠近法の構成──日常性における「近さ」と「遠さ」の両立
    • 第6節 現存在の非本来性における接近と回避の構図──「遠さ」に支えられた「近さ」
    • 第7節 現存在の本来性の諸相──「近さ」に支えられた「遠さ」
    • 第8節 実存論的な遠近法のダブル・バインドとその帰趨
      • (a) 瞬視と恒常性──現存在の歴史的生起の二重構造
      • (b) 現存在の歴史的生起の二重構造とアリストテレスの「今」の二重性
    • 第9節 『存在と時間』以後の遠近法──「近さ」と「遠さ」の根本的な解釈に向けて
  • 第3章 分裂する時間論の地平──ニーチェへの接近と離反
  • 第4章 差異の横断──ハイデガーヘルダーリン論の時間論的解釈
  • 第5章 総括と展望:自らの先立つことの二重の意味
  • 付 論 ハイデガーニーチェ、あるいは彼らはヘルダーリンをどう読んだか

  • 第1章は、『存在と時間』の時間論の中心軸である「有限性」に関する議論の生成過程を、初期ハイデガーアリストテレス解釈にまでさかのぼって明らかにする。
  • 第2章は、テロス(終わり=目的)に到達していることに事柄の本質を求めるアリストテレス的な時間理解の伝統を引き受けながらも、他方で現存在を純粋な存在可能性、つまりたえず「終わりでない」未官僚的な存在として規定しようとするハイデガーの論述を追跡し、伝統の引受とその克服をめざす両義的な試みをさぐる。
  • 第3章は、なおもアリストテレス的な伝統の影響をとどめるハイデガーの時間論が彼自身のニーチェ読解に投影され、批判的にしりぞけられてゆくプロセスを明らかにする。ニーチェへの接近と離反は『存在と時間』の問題設定にたいする一種の自己批判を表しているのだ、ということの確認がこの章の課題である。
  • 第4章は、時間論の構築の新たね可能性をヘルダーリンに求めるハイデガーの試みに注目し、その意味を、晩年まで続く彼の一連の詩論を追跡することによって解明する。
  • 第5章は、これまでの議論を振り返り、ハイデガーアリストテレスニーチェヘルダーリンとの思想的関係性を改めて整理しながら、その時間論の意義と限界について総括する。[5-6]

第1章 ハイデガーの時間論の起源と展開──アリストテレスから出発して

第1節 アリストテレスハイデガー
  • 一つの可能的条件として超越論的な基礎づけの主体ともなる現存在自身が、すでに一定の仕方で根拠付けられた存在である

というこのパラドックス、これこそがハイデガーがかかえこむことになる時間論の問題の枢要にほかならない。それどころか彼は、こうしたパラドックスそのものを現存在の歴史性とみなしてはばからない。要約すればそれは、

  • 「しうる」ことの将来的可能性が「されている」という過去的な事実性との不可分な関係に置かれていること

である。[10]

ハイデガーの議論の枠内ではパラドックスに見えてしまうこういうのは、実は特殊な前提を置いていたからそう見えただけでした」という方向の研究が そろそろ読みたいんですが。

そこがクリアになれば、そもそもニーチェヘルダーリンに頼る必要が無くなるよね。
第3節 現在時制と完了時制の二重構造──初期ハイデガーアリストテレス

アリストテレス、問題の発言。

行為、すくなくとも完全な行為は 自身のうちにそのテロスを含んでいる運動である。ゆえにこういうことができよう。つまりひとはものをみるときに(同時にすでに)みていたのであり、思慮するときに(同時にすでに)思慮していたのであり、思惟するときに(同時にすでに)思惟していたのだ、と。

(30)『形而上学』9巻6章 1048b18-35。ただし牛田徳子の指摘では、多くのアリストテレス研究者がひんぱんに言及するこの箇所は、ポーニッツによるテクストの不完全な修復により再構成されたものであり、文献学的には実証にとぼしいという。牛田徳子『アリストテレス哲学の研究―その基礎概念をめぐって』、創文社、1991年、37頁参照。[210]

ひぃ。

 現在形と現在完了形とが二重に重なるこの構図が物語るのは、

  • ある事象をみる(…)ことが、
    当の事象をその形相に即してみてしまっている(…)という充足契機の絶えざる所有(…)から規定されている

ことにほかならない。この みることと同じように、アリストテレスは、

  • 観想や思惟、あるいは人間の生そのものを、
    その行為の最も活動的(…)な現実性(…)を表すテロス、彼の言葉でいえば「そのためにのそれ(ト・フー・ヘネカ)」にそくして自らを示す現実態である

と考える。

それらは「現実的」にはそのつどの時間的制約下にある行為として観察されるが、根本的には、どこからどこまでといった具合に分割し限界づけることができない。あるいはそうした分割は、ただ「可能的」なものとしてのみ考えることができる。というのは、観想や生は、行為そのものがテロスであるような活動だからである。

それらは、いつかは必ず止むような限りある行為、たとえば歩行のような運動とは違い、有限ではない。つまりこの場合アリストテレスは、有限ではないということを、ある行為が完全な持続の全体であり分割不可能であること、あるいはこの分割が可能性としては無限に可能であることから考えている。ゆえに彼は「に局面的な構造解釈」が可能なこれらの活動を、活動それ自体がテロスである完全体[エンテレケイア]ともよぶ。それは一定の仕方で分割されてある有限的な行為だが、また同時に、無限に分割可能な活動でもある。[21]

そこでギルバート・ライルですよ!!