涜書:池田(2009)「志向性・語り・行為−ハイデガーの現象学的行為論−」

本日の通勤読書。ネットに落ちていたので読んでみた。

2009年の論文ですが、2011刊行の単著(『ハイデガー存在と行為―『存在と時間』の解釈と展開』)には(まるごとは)収められていないようですな。
http://www.seijo.ac.jp/graduate/gslit/orig/journal/europe/pdf/seur-28-01.pdf

ハイデガーアリストテレスフッサールを並べて読んだよ。さてどうなったでしょう?──というおはなし。

1. 初期ハイデガー現象学──遂行意味・状況・行為

 フッサール現象学のこうした論点をハイデガーが見落としているはずがないとすれば、なぜハイデガーは、フッサールが作用の遂行意味にとっての「状況とその変遷」を考慮していないと考えるのだろうか。
 問われるべきは「状況」という語の意味である。ハイデガーにおいて、「状況」とは「事実的生」において開かれるものであるが、これによって意味されているのは、事実的生の状況とは、感性的に直観される知覚の状況ではないということなのである。[10]

「志向性」から「Sorge」へ、と。

2.存在と時間』における「語り」の断念──話者と聞き手の間へと問題を設定する

「心理学主義の原則的な拒絶」に基いて、フッサールは、判断の「レアールな遂行(realer Vollsug)とイデアールな内容」を区別したのだが、「しかしまさにこの作用のレアールなもののレアリテートが無規定にとどまっている」(160*)。命題の意味という判断のイデアールな存在を強調し、心理学主義に逆行しまいとする中、「イデア的なもののいわば発見ないし再発見に魅惑され、他のもの、作用や出来事は心理学に委ねられてしまった」(161)。その反動のごとく、レアールではない「絶対的根源の存在領域」として「純粋意識」が求められ、この意識に「なおもレアリテートを要求することは馬鹿げている」という主張にまで展開したというのである(154)。[13]

『時間概念の歴史への序説』(1924)

ここおもろいな。
ハイデガー社会学にもっとも接近する箇所のひとつ。

とはいえ、それに対応する「社会学」など、ほとんど存在しないわけだが。

3. 言語から行為へ──ハイデガーの反 命題中心主義と「解釈学的な〈として〉」の発見

この節はむずかしくて評価できない。

 ではハイデガーの言い分に従うなら]

  • 命令その他の言明以外のタイプの語りは、[サール風の言い方をすれば]提示と述定の遂行ではない仕方で、対象へと志向的にかかわり、「或るものとしての或るもの」の分節化を行なっている

ということになるが、それはどういうことだろうか。ハイデガーは、この種の分節化の様態を「実存論的-解釈学的な〈として〉」と名付け、「言明の命題的な〈として〉」から区別する(158)。前者は「前述定的(vorprädikativ)」(vgl., 359)な知の形式ということもできるが、しかし、これはフッサールが『経験と判断』などで論じている「前述定的経験」とは異なる。というのも、

  • 前述定的経験は「述語判断」の前段階に位置づく受容的な働きであるが、
  • 「解釈学的な〈として〉」は あくまで述定を伴うことなく独自に完成した分節化のクラスを形成しているからである。[17]

「解釈学的な〈として〉」って、『存在と時間』ではわりとあっさりと登場してくるけど、ハイデガーがそこに賭けたものって けっこう でかいんだよね。評価できないけど。

 命令や願望といった文脈依存的な語りにおいて、話者と聞き手が存在者を何かとして分節化し、「伝達」を完遂するための第一の前提は、特定の言語表現の理解というよりも、両者が、同一の環境世界の内で、同一の目的を了解し、環境世界的ないし道具的に存在者に出会われ、相互に行為していることである。[19]

4. 技能知と真理の規範性──〈ハイデガープラグマティズム〉再考

ハイデガーにおいて、解釈の「根源的な遂行」は、無言の内に道具を取り除いたり、交換したりすることの内に求められる。そこで発揮されている知は、特定の状況下で他者とともに 道具的存在者が〈何のために〉あるのかを見抜くもの(配視)であるが、この知が 発話とともに具体的に遂行されるのは、対話状況で実践的な行為(道具を除くなり、交換するなりすること)を成就すること以外の何物でもない。「根源的な種類の実践的かつ対話的な技能知」が行為の遂行において発揮されるのである19。[22]

仮にこういう方向で考えていく可能性があった、として。
ではその場合、具体的にはどんなふうに研究を進めていきましょうか。

「命題知」を中心に据えるやり方が強いのは、それでもって 実際に かなりいろんなことを分析できてしまう、ということがあるからでしょう。
「反命題中心主義」を掲げてみたところで、命題中心主義を批判すること以上のこと──要するに、具体的なあれこれの事柄についての分析──ができないと そこから先に話が進まないから看板倒れに終わるよね。言い換えると、具体的な分析上の対案を提供できない研究は、「命題中心主義」にとっては ちっとも怖くないよね。(「敵ですらない」的な意味で。)

注19。

ハイデガーの]テクストのなかにはほとんど依拠するものがないにもかかわらず、私はこう信じたくなる。語りの根源的な現象は、行動が共通の規範と一致するかどうかを語ることであり、結局、正しい行動を間違った行動から区別することである、と。実際そのような語りによって、有意義性の根源的な分節化がおこなわれ、同時に、正しさ──例えば言明の正しさ──の可能性も基礎付けられるであろう。そう考えることで、なぜハイデガーが頽落と語りのあいだに構造的なつながりを見たのかも説明できるように思われる。頽落とは本質的に、公共的規範に「同調すること」であり、それを正しさの規定として受け入れることなのである23

 ホークランドは挙げていないが、〈テクスト的な証拠〉として最適であるのは、

世人の悟性的分別は、手頃な規則と公共的規範(handliche Regel und öffentliche Norm)を満たしているかどうかだけを知っている(288)

というものであろう。[25]

 「言語の存在論的な〈場〉」を「日常性」の中で再考するハイデガーは、言語の問題を、最終的には、日常的なふるまいの仕方を規定する公共的規範の問題として扱うに至ったのである。ただしこの規範性は、実のところ、単に「慣習的(konventional)」なものであり、十全に根拠付けられたものではないことになお注意が要る。「◯◯するためには××するものだ」という日常的な解釈がいかに広範に受け入れられていようとも、各人が、この解釈を「◯◯するためには××せねばならない」という強い意味での規範として受け取り、これに従って行為しなければならないという必然性はない。[26]

そこでエスノメソドロジーですよ。

しかし「同調」などという語彙を選んでいるようではまだ温い。>ホークランド
あと、せっかくここまで議論を進めてきたところで、規範を もっぱら「拘束力」のほうから捉えてしまうってるのはなんとも残念。

ところで。
〈日常性〜頽落〜非本来的/本来的〉ってのを 蝶番使ってバーン!的にひっくり返せるような議論が構成できるのは、そこで描かれている 日常的なもの(なるもの)が「もともと反転できる程度にしか描き込んでない略図」でしかないからだよね。
充分に複雑な素描であれば、そんなに簡単にひっくり返せるはずがないわけでさ。


注23

  • Haugeland, J., Dasein's Disclosedness, in: Heidegger: A Critical Reader, ed. by H. L. Dreyfus and H. Hall, Oxford/Cambridge: Blackwell, 1922, p. 37



たいへん啓発的で面白い論文であったが、「伝達」と「対話」は、事柄にふさわしくないので ぜひ不使用の方向でご検討いただきたい。

ハイデガー本人が使ってるからしょうがないんだけど...