再訪。
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第四章 現存在の存在論
第10節 三 存在論の歴史の解体
p. 146
1927年夏学期講義(GA24) | 『存在と時間』(GA2) | |
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(1) ウーシア | ウーシアという根本概念は、意のままになる物在者という意味における製作されたものの被制作性を強調する(153) | 道具はもっとも広い意味で使いやすく、意のままになる verübar。(93) |
(2) エイドス |
形作られ刻印されるべき物の先取りされた見相への指向において、物は制作される。この先取りされ予め視られた物の見相は、ギリシア人がエイドス、イデアによって存在論的に思念するものである。(150) エイドスという概念は 制作の地平から生まれている。(214-215) | 作品、その都度制作されるべきものは 第一次的に配慮されているものである。(94) |
(3) 質料 | 質料という概念は、制作することに包囲付けられた存在理解からの起源を持っている。(164) | 制作自身は或もののために或るものを利用することである。作品のうちに同時に『材料』への指示が潜んでいる。(146) |
第11節 三 終わりに至っている存在とエネルゲイア
p. 162。「テロス」への関わり方には二種類あるよ、という話。
『古代哲学の根本概念』(GA22, 328) | 『存在と時間』(GA2, 436) | |
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エネルゲイア |
私が或るものを見てしまったとき、私は「今それを見る」と言う。見てしまったことによって見るという行為は集結する aufhören のではなく、見るという行為はまさに初めて本来的になる。
[こちらの場合、]それが目標に達している時に、まさに初めて現実的である。
| その終わりに至っているそのような存在において現存在は、「死へと被投されて」ありうる存在者として、本来的・全体的に実存する。 |
キーネーシス | それに対して、聞く、歩く等の別の運動のあり方は、そのテロスが到達されるとき、終始する aufhören。 |
現存在は、そこで現存在が
単に終止する aufhören 終りをもつ
のではなく、有限的に実存する。
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左段は、ライルの〈achievement / task〉区別を想起させる。
しかし〈task〉は「時間のなかで生起する事柄」だが、〈achievement〉は「時間に関わる事柄」ではあるまい。
→疑念: ハイデガーは、「先立って」「未済の」「既に」「いつもすでに」「不断の」などなどといった言語表現を見て、「そのように言えるのであるからには、それらは「時間的な」事柄だ」と言ってしまっていないか?
別の論点: たとえば、「経験に先立って」という表現は──「権利上先立って」と解されるべきものであり、これを──「経験に 時間的に 先立って」と解する人はいないだろう。
もしも誰かが たとえば、
- 「(出来事として、時間的に)先立って」というのは非本来的な時間の捉え方であり、
- 「(ア・プリオリに、経験に)先立って」のほうが本来的な時間の捉え方なのだ、