平田仁胤(2016)「状況的学習論の再検討」

読書会で教えていただいた文献。

  • 1. はじめに
  • 2. フレーム問題
  • 3. 状況に埋め込まれた学習
  • 4. 共同存在としての現存在
  • 5. 世人あるいは透明性をめぐる両義性
    • (1) 順応性と順応主義
    • (2) 可視化と不可視化の弁証法
  • 6. おわりに

著者の最初の主張は、レイヴ&ウェンガーの議論は──「状況」という語の援用も含め──ドレイファスのハイデガー解釈の影響下にある、というもの。レイヴ&ウェンガーがドレイファスを読んでいないはずはないという点でも、主張内容の点でも、これは話としては如何にもありそうなことだと思う。

私が読書会で「ここで描かれている事態は、〈学習〉というよりは〈習熟〉という言葉の方がふさわしいし、にも関わらずそれを〈学習〉と呼んでしまうのは行動科学的=認知科学的偏見なのではないか」と述べたときにも、実際ハイデガーのことを念頭に置いていたわけなので。

しかし、著者は そう述べてよいテクスト上の根拠を何も挙げてないですな。

もろもろの文献を当たれば、ハイデガー=ドレイファスについて論じている箇所が実際に見つかりそうな気はするけど。


著者のもう一つの主張は、

  • ドレイファスは、『存在と時間』における「頽落」の肯定的な側面しかピックアップしておらず、
  • ドレイファスに乗っかっているレイヴ&ウェンガーの議論にも それがそのまま当てはまる

というもの。だけど、「正統的周辺的参加にも〈頽落〉が伴うだろう」というのは、レイヴ&ウェンガーにとって何ら致命的な批判のようには聞こえないですよね。

「そりゃそうだろう」くらいの話で。
参照文献

誰かこれ複写してくれまいか。