システム合理性: 選択の首尾一貫性/反省

ブプナーの議論にもう少しつきあってみたい気はするのだが、目下の作業目標にとって 迂回にもほどがあるのでやめておく。
ともかくも、「複雑性」論文に見て取れるようにid:contractio:20090521#p1)ルーマンは、「正義」概念を、「システム合理性」というトピックの一つとして・「複雑性」というタイトルのもとで 扱っているわけである。そしてこのトピックは、ルーマンの議論においては、

  • 一方では、「システムの反省的自己主題化」というトピックと、
  • 他方では、「システム内で膨大に生じている諸選択の間の首尾一貫性」というトピックと

連関している。 (そして、そもそも、目下の主要論題である「法的論証」が、ここでいう「システム内で膨大に生じている諸選択」に相当するものだからこそ、このトピックに立ち入ってみる必要があるわけである。)
というわけなので、この点をもう少し追ってみるべきところ。

ところで、──通りすがりにブプナーの議論との関係に触れておくと──、ブプナーが問題にしている「科学方法論」を議論するにふさわしい場面は、ほんとうは ここ──「科学の反省的自己主題化(〜社会的システムの自己制御〜システム環境の勘案)」──であったはずである。
にもかかわらず、ブプナーは、ここにたどり着く遥か以前の場所で、システム論の議論の詳細に立ち入ることなく入り口で引き返してしまったわけである。
他方、id:contractio:20090521#p1 で引き合いに出されている事柄をみると、「システム合理性」が問題となっている場面が、──企業体の場合であれば──「ゴーイング・コンサーン」といった言葉でもってイメージすることができる状況であることがわかる。ルーマンが描いているのは、「諸選択を なんとかして 調整しながら なんとかして 続けられていく[、たとえば「研究」という]社会的実践(の流れ)」であって、ここには、ブプナーが要求し・求めているような、「超越論的に基礎付け可能な原理」など 欠片も見当たらない。
だから、その意味では、ブプナーがルーマン理論を遠目に眺めて「あるべきものが見当たらない」という評価を下したのは正しい。それは無いものねだりだから。
なにしろ、ルーマンがここで──「科学の実証性」と並べて──引き合いに出しているものを併せて考えてみれば、ブプナーが求めているものは、「必ず儲かる方法」とか「決してあとから修正されることのない決定的な判決を下す方法」とかに相当するものでないのかどうか*を疑ってみたくもなる。ルーマンが「科学における実証性」と呼んでいるのは、研究者たちが実際に採用している「誤りがあっても-それを訂正しながら-進んでいける-やり方」のことである。「それ以上の決定的な方法」を我々の誰も持っていないのだし、そうである以上ルーマンだって持っていない。そして、もしも そのことが非難されるのだとしたら、それは おかしなことである。
* まぁもちろん、ここまで戯画化すればこれはこれで──こんどはこちらが超越論に対する誤解にもとづく──お門違いな批判になってしまうが。
まぁそれはそれとして。


1971年、『批判理論と社会システム理論―ハーバーマス=ルーマン論争』。http://socio-logic.jp/lguides02.php#y1971
最終論文「システム理論の諸論拠──ユルゲン・ハーバーマスに対する私の回答」から。

[p.466-468]


1991年、『システム理論入門―ニクラス・ルーマン講義録〈1〉 (ニクラス・ルーマン講義録 1)』.

II「一般システム理論」9「合理性の理念」

[p.221-]


1968年、『目的概念とシステム合理性―社会システムにおける目的の機能について』。http://socio-logic.jp/lguides01.php#y1968

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こいつは「企業」水準に定位した本なので、目下の議論には あまり参考にならんかな。
まぁ結論部分のここは参考になるか。

結語「経験的研究と規範的研究の分離について」

[p.268]

おそらく、この↑認定は、『社会の法〈2〉 (叢書・ウニベルシタス)』における(実践哲学のバイアスをもった)既存の「論証理論」に対する批判とパラレルなもの。
ただし、これに対するルーマンの「回答=対応」のほうもパラレルといえるかどうかはよくわからない。


もう一つ。「複雑性」論文と同じ年、1975(→1986)の著作『権力』におけるシステム合理性についての短いコメント。http://socio-logic.jp/lguides02.php#y1975

[p.120-122]