発見。承前:http://d.hatena.ne.jp/contractio/20090521#p1。おそらく20年ぶりくらいに読んだ。
1973年出版の論文集に掲載された小論。
論文集の目玉はポパー批判論文(70頁弱)だが、刺身のつまとしてルーマン批判もついでに添えられている(30頁弱)、といった風情。
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ブプナー先生の、「弁証法的批判を解釈学として遂行する」というスタイル自体は嫌いではない──というよりもむしろ親近感を覚える──のだが、この論文自体は、20年前読んだときにも理解できなかったし、今回もやはり さっぱり理解できなかった。残念。
「はじめに結論ありき」で難癖つけている、という以上のものには感じられないですなー。
■導入部分:
リッカートの論述は、要約すれば以下のようになる。概念として全ての(科)学は、諸課題にもとづいて理解される。第一次的な認識課題は、私たちを取り巻く世界の「多様性を単純化すること」にある。[...] 自然科学は、まず普遍妥当的な法則を立てることによって、この認識課題を充たす。[...] だが、自然科学が、その内的な一貫性に従って一般化の仕事をすすめるならば、自然科学は限界に突きあたる。現実的なものが一般的構造ではなく、常に異なる経験的な特殊性を持っている限り、限界は、この現実的なものの固有の在り方によって設定される。[...]
そこで今度は、歴史的な文化科学 が根源的な認識課題を引き受ける。文化科学は、特殊なものを特殊なものとして堅持しながら、それを一般的な地平のなかにおくことに成功する。この一般的な地平によって、文化科学が〔客観的な〕認識について語ることが出来る。リッカートは、〔個別的現実を科学的認識の対象にするという〕問題の手法を 理論的な価値関係 と名づけ、それを 実践的な価値判断 に対置する。この場合、リッカートは、〔価値関係という〕一個の術語を支えにする。
この術語は、おそらくヘルマン・ロッツェが初めて採りいれ、ヴィンデルバントがすでに使っていた。すでに国民経済学の時代は過ぎており、価値概念はロッツェの場合には、そもそも美学のコンテクストのなかに現れる。ロッツェの価値概念は、観念論が 事実の経験と対立させて、理念という名の下に理性の現実として把握したもの を言い表している。リッカートによれば、文化科学は、肯定的にも否定的にも〔現実についての〕価値判断 を下すのではなく、むしろ歴史的・特殊的な諸対象を、普遍的な意味を持つ一個の価値への認識上の関係におく。価値関係によって、歴史的なもののもつ特殊的な現実性に、普遍的に理解可能な〈意味の妥当〉が与えられる。この意味の妥当には 様々の可能性の網目が現在的に含み込まれている。かくて、文化科学の諸対象は、理解作用の非実在的な意味継承として構成される。
自然科学と文化科学との違いを超越論的に導きだす場合、リッカートが主として一般者と特殊者という論理的な対概念を用いていることが分かる。
リッカートは、この〔一般者と特殊者との〕統一を、解決されるべき認識課題の内に投影する。リッカートは、そうすることによって、自分の科学論の強みを発揮させる様々な可能性を手に入れた。
- リッカートは二つの認識様態を区別することができる。この二つの認識様態は、現実的なものの認識という点では似ているけれども、構造上からは区別されるのである。
- さらに、〔二つの〕認識課題を統一的に定式化することによって、構造上から区別される二つの認識様態相互の関連、また、この二つの様態が相補う必然性をリッカートは示すことが出来る。
「理解社会学」というマックス・ウェーバーの理念は、その全内容にわたって、リッカートの文化科学上の根本見解に負っている。ことにウェーバーが、方法論的に基礎づけられるべき社会科学のカテゴリー上の骨組みのなかに意味概念を採り入れたことには、文化科学に関するリッカートの先駆的な構想が動機になっている。『経済と社会』冒頭の節で、ウェーバーは「行為」を社会学の根本概念として採り入れる。行為は本質的に、意味と結びつけられて規定されている。これによって、ウェーバーは 行為の構造を述べたのではない。むしろ彼はここで、もっとも広い意味での行為に関わるもの、社会学の研究分野に含まれ、さらに文化科学的・価値関係的・意味理解的な研究の諸々のありうべき対象として分類されるものすべてについて語っているのである。
このようにして私たちは、ついにルーマンを論究すべき地点に達した。[p.173-177]
ブプナーは、「ウェーバーはリッケルトの議論を吟味無しに引き継いだ。ルーマンは、本人としては──「意味」についてのウェーバーの見解を再検討することによって──そこから離脱しようとしているようだが、実のところ、リッケルトの議論水準に
退行している」(大意)と言いたいようなのだが、その根拠がよくわからないのだった。
■「意味」について
このようにして私たちは、ついにルーマンを論究すべき地点に達した。ルーマンは、ウェーバーが疑いも抱かずに意味概念を評価していることに不満だと明言して、概念を根本的に獲得するための基礎づけの次元に立ち返る11。この次元こそ、ウェーバーがリッカートの[〈一般者/特殊者〉〜〈自然科学/文化科学〉といった]超越論的カテゴリーを個別科学のなかで用いた際に、不問に付してしまった当のものなのである。[...] 私の考えでは、ルーマンのこの[意味論文という]労作は、ウェーバー風の社会学的カテゴリー論からの退行の歩みを示している。すなわち、自然科学的な概念形成の限界を 純粋論理的に規定する というリッカート型への方向へ歩んでいる12。[p.177]
11 Habermas/Luhmann, [...] 1971, 13, 58, 76, 90; 11 を比較。Soz. Aufkl. 116, 131.
12 《Grenzen der klassischen Kausalvorstellung》 89 を参照。Funktion und Kausalität. In Sozial. Aufkl., a. a. O., 特に 116ff., 26 も参照。129f. を比較。
仕方ないから「参照・比較」しますか。(いつか。