涜書:ハーバーマス(1967)『文献レポート:社会科学の論理によせて』

ISBN:4772003622

新板のための序文(1982)

p. 8

批判的社会理論の試みは、なによりもまず方法論と認識論のレベルでその正しさが立証されねばならないというのが、わたしのかねてからの考えだった。『社会科学の言語論的基礎づけ』──当時『社会科学の論理』の序文でわたしはこの論考を約束していた──には、まだこの考えが反映している。だが、コミュニケーション的行為の理論を方法論の視角から導入しようとした試みが袋小路におちいってから、わたしはこの考えにこだわるのをやめた。補遺として再録したノートがことに中途で途切れたままになっているのは、袋小路におちいった証拠である。コミュニケーション的行為と生活世界という相互補完の関係にある基礎概念は、意味理解の問題構成に方法論的な眼を向けることでは導入しえなかったのである。
 そうするうちに、わたしはコミュニケーション的行為の理論を世に問うことになったが、これはかたちを変えた方法論の続きではない。[…] 認識論からコミュニケーション理論へ展開したことで、それまではメタ理論の立場からみて問題であることだけはわかっているものの、その前提を明らかにできなかったような問題に、実質的な答えを与えることが可能となったのである。

文献

I-1 科学の二元論をめぐる議論の回顧

iii ウェーバー。p. 40

ウェーバーは、さまざまのかたちで使用される意味や意義のカテゴリーを充分に解明しなかったというより、むしろ対立する意図の二律背反について思い違いをしていた。ウェーバーは、2つの理解の区別、つまり

  1. 社会的行為の意味、行為主体がうちにいだいた意味を追体験する動機理解と
  2. 作品や出来事のなかに客観化された意義をわがものとなす解釈学的意味理解と

の区別を、一貫できなかったのである。

なんぞこれ。