ブプナー「解釈学の科学論上の役割」「探求の論理の弁証法的諸要素」

ついでに「解釈学」論文とポパー批判論文も再読してみた。こっちは どちらもよい出来。

てことで、ルーマン批判論文のダメさが いっそう際立つ。
弁証法と科学 (1983年) (フィロソフィア双書〈7〉)

弁証法と科学 (1983年) (フィロソフィア双書〈7〉)

  • 3章 解釈学の科学論上の役割──討論を啓発するために──
  • 5章 探求の論理の弁証法的諸要素

本書の舞台は『実証主義論争』と「ポパー=クーン論争」が交錯する地帯だが、この本が出た1973年というのは、まさにこれらのトピックスがホクホクのジャガイモ状態だったのではないかと思われる。当時の ドイツの-超越論的志向をもつ-哲学者にとって これが「取り組むに値し、また取り組むべき課題」であったのは、(ドイツにおいては)この論争地帯が、リッケルトによって用意された〈自然科学/文化科学〉という論争地盤*のうえに乗っかっていたからだろう。

この地盤は新カント派とディルタイとの論争状況のもとで形成されたのだし、1960年の大ヒット作『真理と方法』isbn:4588001752 isbn:4588001760 も この「方法論争」の地盤をターゲットにしたものだったから、「解釈学」運動は、この地帯において狂言回しの役回りをずっと引き受け続けることになった。
この著作には表立っては登場しない**が、ここにもうひとつ「実践哲学の復権」というモメントが絡んでくる。そして ここでも「解釈学」運動が同じ役割を引き受けていた。
* もちろんこれは、「古い社会学の方法論争」を規定していた区別として、社会学にとっても無縁なものではない(どころの騒ぎではない)。少なくとも20世紀においては。
現在の論争状況については、私は知らない。(というか、これを引き継いだ、あるいはこれに相当する論争は「無い」ようにも思われるが、まぁそのへんは門外漢の悲しさで よくわからない。)
** 関連する議論は、第3章「解釈学の役割」論文のなかにガダマー&ハーバーマス(フロネーシス&合意)批判の形で少しだけ出てはくる[p.145-]。

こうした論争状況は、われわれにとってはすでに「歴史的」な対象になってしまった。しかしそれだけに、旧世代の論争地盤を的確に捉えたうえで、同時代のポパー哲学を中心とする論争状況を整理していくブプナーの手際は、いまなお読む価値のある見事なものであるという判断が、(現時点においてこれを「歴史的文書」として読むことが出来る)私たちにとっては容易に可能である。

それだけにいっそう、俊英ブプナーが、ルーマンのプロジェクトをどのように「見誤り・捉えそこなったか」という点は、これはこれで考えてみるに値することであるように思われる。(ただし、すぐ後に述べるが、その最初の-そして-決定的な一歩は、ごくごくトリヴィアルなものである。)



ポパー哲学の展開と、クーン、ラカトシュ、ファイヤーアーベント、トゥールミンなどによる科学論論争を、解釈学的・弁証法的な観点から整理していく中でブプナーが取り出してくるのは、最終的には、「方法の自律性」という論点である。その作業を振り返りながらまとめつつ、返す刀でヘーゲルについてコメントした箇所:

 素朴経験主義の対応説的な真理概念は、科学の 一つの 正しい言明体系のなかで実在そのものを再認しようとするものだが、この真理概念は疑わしくなった。また「近似」の名によって、絶対的真理を科学的進歩の究極的焦点として救出する試みは挫折してしまった。こうした疑問と挫折の後では、方法は、いまや自分の合理性に対しても責任を負わなければならない。現実との一致に帰着するような真理概念には助けを求めずに、知識の批判的運動が合理的でありつづけることを、ある種の方法の方法(Methode der Methode)が配慮しなければならない。ここでの困難が、方法についての思考を土台にして分析されなければならない。この分析に際しては、〔方法という〕特殊な諸問題の全体的スペクトルのなかに入り込んでいる諸々の歴史論へ問題を波及してはならない。

 批判的意識を誓うだけでは、方法はまだ生まれない。合理的な態度の側に立ってその意図をありきたりに釈明しても、方法の正当性の証明はまだ得られない。[ポパーが頼りにした]試行錯誤法とは要するに、所与の伝統という背景に状況付けられた諸問題、それに適切に答える解決の試み、提出された推測を不十分だとして拒否する際の明確さ、これらが規則的に交互に繰り返されることである。そうであれば、試行錯誤法は、このような手続きをとることがどうして理性的であるのか を 合理的に、しかも繰り返し遂行できるように自分で提示できなければならない。勧められる方法は、自律的でなければならない。

 私は、ひとが知っておいてもいいような 自律的になった方法 の一つの提案として ヘーゲル弁証法の論理 を捉えてみたい。ヘーゲル自身は、方法上の処置を 合理性の条件とみなしている。[...] だが、〔哲学という〕純粋思考の方法は、たとえば、経験科学とか数学とかにあるような外部のモデルを 検討しないままに採用 したところで獲得できない。むしろ哲学は、これらのモデルの不十分さ、およびモデルの基づく或る前提を批判しなければならない。弁証法的論理の方法は、これらのモデルに対して自律的であらねばならない。自律とは、もはや〔別のものとの〕克服しがたい違いに執着するのでもなく、どこからか或る別のものを借りる必要もなく、ほかのものにはまったく依存しない ということである。

 ヘーゲルは、弁証法的論理の方法の 絶対性 の指標が自律だとみなした。彼は、自分の体系構想に基づいて、絶対性を自己主張せざるを得なかった。彼は、精神という形而上学的概念によって絶対性の要求を実体化しようとした。それにもかかわらず、絶対性は方法の自律化によって基礎付けられ、逆にいうと、論理学の方法の自律化は、その外から絶対性を保証されることに依りはしない。こうした〔絶対性の*〕基礎付けが問題になっているのだから、方法問題の枠の中では絶対性の主張は取り除いていい。また、そうした絶対性の主張の拠り所となる体系構想も取り除いていい。自律的となった方法の合理性 だけが注目されるのである。[...]

 ある構造の規定性が、構造自身の側で、何らほかのものによっては規定されていない時、その方法は、自分の自律性を証明している。したがって、方法を方法たらしめるものは、一個の所与にも、一個の設定された認識目標にも、一個の独断的な真理概念にも左右されない。もしも手続きが、これらのものにもう一度適用できるのでないならば、この手続きはたんにそれらに屈服しているに過ぎない。だが、このような自律において、その構造が認識可能性を失わず、方法が無規定な無に落ちこむことにならないとすれば、それはただ、方法の方法による自己規制によってのみ成立可能である。方法の歩みが、手段であるばかりか対象でもあるとき、ヘーゲルは「自分自身を築いていく一顧の道」ということを言う。方法が、その対象に対して外部のものであることが無くなる。理論的形式とその所与としての内容という硬直した対立が、[...]、調停(媒介)されて、知識の進歩という統一になる。[...] [p.255-259]

* これは訳者の挿入だが、「自律性の」のほうがふさわしくないだろうか???


さて。
ブプナーが、ルーマンの議論を「軽くあしらって済ませられるもの」として扱ったのは、それが外在的なモデルを「検討しないままに採用しただけのもの」であるように見えたから、だろう。

そのことは、「科学論」にとっての『真理と方法』の意義を論じた第3章をみると確認できる。

解釈学のもっている二律背反は、
  • 一方で 明白に超越論的な自己主張をし[=「理解」が孕む普遍的な制約についてことあげしながら]、
  • 他方で、この自己主張にふさわりい理論的な地位につくのをためらう[=方法についての独断論と化することを恐れて「ひとつの理論」を構築することを忌避する]
ということの間にある。当然、この二律背反は それを解決する試みをけしかけるということが、生じざるを得ない。ニクラス・ルーマンが、[『社会学的啓蒙』で]社会科学の範疇的基礎付けを試みたとき、結局、その背後にあったもの〔動機〕は、私の考えでは、この二律背反を解決する方向で決定的な新劇を企てることだったのだと思う。「社会学の根本概念としての意味」という研究論文で、ルーマンは解釈学的問題設定の普遍性を攻撃した。しかし同時に、彼は、問題の論理的・理論的な克服をあらためて要求した。
  • ルーマンは、形式的・一般的なシステム概念から出発する。[...] かつてマックス・ウェーバーが意味のカテゴリを社会学に導入したが、ルーマンはこのカテゴリーを[「複雑性の縮減」および〈行為/体験〉図式を用いて]より原理的に捉えようとする。
  • また彼は、システム思考の完全な形式性によって、解釈学が普遍性を主張することをも引き受ける30ルーマンは、もちろん解釈学とは違ったしかたで、この主張を理論的に正当化できると思っている。諸構造の機能的な秩序付けによって安定するシステムというモデルの中で、結局すべてのものが考えられるならば、解釈学が定式化できずに31、真理生起(Wahrheitsgeschehen)という隠喩的言語に書き換えたにすぎない根本的概念が、システムというモデルであるように思われる。
  • さらにシステム概念によれば、体験と行為 とを明確に導入することが出来るように思われる。〔解釈学においては〕体験と行為が区別されていないので、理論的・実践的なヤヌスの様相が解釈学に付与されている。
    実は、このヤヌスの様相が、議論において解釈学に対する先に[3節で]述べた 第二の[解釈学における「理解」を、「実践知」や「合意」にひきつけて捉えてしまうという]誤解に、[ガダマーやハーバーマスなどを、そしてまた論争者たちを]導きいれたのである32。[p.152-154]
30 Habermas/Luhmann, 378ff., Soz. Aufkl.44
31 Habermas/Luhmann, 17,30,39,303 および Soz. Aufkl. 82ff.(歴史の解釈学的意味に向けて!),129.
32 たしかに、これを論拠として、ルーマンはコミュニケーション的行為の概念に対してしっかりした反論を述べることができる立場にある。ハーバーマスのこの概念は、対話と談話から十分明晰に区別されてはいないように覆われる(Habermas/Luhmann, 293,316ff., 327!)。
ここまでが前置き。

 さて、ルーマン批判として強調しておかねばならないのは、どんなものにでも適合するシステム概念は、〔その形式性のゆえに〕内容の点で自分が空虚であることを利用して、概念としての原理的な妥当性と普遍性を装う、ということである。システム概念は、〔認識を〕基礎付ける一個の超越論的カテゴリーという地位を持たない。それは、〔認識の〕判例的なモデルに過ぎない。このモデルを用いることによって、ひとは、適切な抽象をほどこされたあらゆる任意的な内容でも表すことが出来る。しかし、〔実際の認識よりも〕そのつど前もって抽象が行われるから、モデルがあれこれの場面で何を意味しているのかは明らかにならない。他方、超越論的概念の特徴は、まさにこの概念によってのみ明瞭な内容が認識されるという事実とその程度に応じてこの概念も認識されうるということにある。この点で、システム理論は、解釈学と共通した弱さを持つ。つまり、それらの弱さとは、とくにその〔用いられる概念の〕ために 〈ad hoc〉常に例証を必要とするということである。だが、解釈学的反省が優れているのは、認識の根本的な制約性を具体的に明らかにする点である。事実この点で、解釈学的反省は、超越論的哲学的な自立的な尺度を正当と認める。ルーマンが、システム・モデルによってすべての実質的な問題を例外なく写像するにしても、ものがその様にだけ見え、別のように見えないということについては、どこにも説得的な論拠がない。それゆえ、ルーマン写像には、直感的に表す という役割だけが与えられるにすぎず、思考に不可欠な前提という役割は与えられない。

 重要なのは、解釈学理論の超越論的性格を確保することである。

だがそれは、「知識のどんな立場も無反省な諸条件に依存する」ということの、常に可能な論証にその超越論的性格を帰着させるということであってはならない。この目的のためには、解釈学は より明確に、理論として自己を分節しなければならない。[p.154-155]

これに反論するだけなら簡単で、

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──これで足りる。
しかし考えてみてよいのは、ブプナーがもしも適切な比較を行った場合、「方法の自律性」という論点について何が言えるか、ということのほうである。