お買いもの:磯直樹(2020)『認識と反省性』

このビッグウェーブに乗って俺も(ようやく)購入したぜ。

この本を読んで初めて気がついたが、ブルデューの reflexive の語用って おかしくないだろうか。反省的 reflective という語を使うべきところで、再帰性・反省性という語を使っちゃってない?
あとこの本、「認識と反省性」というタイトルのうち、「認識(論)」なる術語の予備考察のためには第一章が用意されてるけど、「反省性」の方にはこれに相当する章がないのは何故だろうか*。そのこととも関係しているように思われるが、本書は 何が「反省性」と呼ばれているのか についてはそれなりに記してあるけど、なぜそれは「反省性」という言葉で呼ばれるのか について書いてないのでは。

* これが意味するのは、「認識」や「認識論」についてはおこなっている語義や先行研究の整理を、それと同程度には、「反省性・再帰性」についてはおこなっていない、ということである。だから、おそらく著者は「なぜそれは「反省性」という言葉で呼ばれるのか」という問いには‪──‬なにしろ著者は、この本の中で、おそらく一度も この問いを立てていないのだ‪──‬答えられないのではないだろうか。

メモ

序論
  • 16 本書が提示しようとするブルデュー像:二重の認識論的断絶としての反省性を実践する社会学
第1章「社会学と認識問題」
  • 「エピステモロジー」のフランス語の初出はラッセルの『幾何学基礎論』の仏訳(1901)
  • 48 金森修2015「英米系のいわゆる「科学哲学」が論理学をベースにしながら、多様な思考実験を介して科学的知の特性や限界を述べるというスタイルをとるのに対して、それ[エピステモロジー]があくまでも、実際の個別科学史の展開の具体的分析をベースにしている」
    エピステモロジーは、「個別科学が実際の歴史の中で辿った理論の変遷を背景にした一種のメタ科学史」である。
    49 金森御大重ねて曰く:「科学史を論じながら、その過程で析出される概念や理論の運動の中に、人間の合理的思考の特徴や傾向を見るという作業からなる」

これ、「科学史に基づいた科学哲学」とか「科学史に基づいた認識論」とかであっても、「メタ科学史」ではないのでは。

  • ヘルベルト・シュネーデルバッハ『認識論―知の諸形式への案内
  • 58「1950年代末には、フランスの研究機関に所属する社会学者は20人ほどしかいなかったが、その数は10年ほどの間に10倍以上になる。」
  • 62 例の表現:「しかしながら、KKVを含めた一連の論争では、データや情報を得る過程にどのような認識論上の問題があるかは等閑視されている。それは手法や技法の問題であって、リサーチ・デザインの問題ではないからであろう。」

何が足りないんですって?

本書で謂う「認識論」なるものがどのような仕事に取り組むものなのかを直截に述べた箇所が びっくりするほど少ない。一つ見つけられたのは次の箇所(p. 63)。

認識が対象をどのように観察し、そこにはどのような問題が考えられるか。理論負荷性の「理論」とは具体的に何であり、それにはどのような歴史があるのか。このように問うことは、認識主体を対象化することであり、科学的知識と社会的なものとの関係を対象化することでもある。こうした対象化は本書の主題である再帰性=反省性の問題でもあり、エピステモロジーで問われてきたことでもある。ここで、ブルデューらの『社会学者のメチエ』(…)の議論に接続することができる。

第2章「哲学徒のアルジェリア経験」
  • 72 カンギレムの仕事は「歴史認識論/認識論の歴史化」。
第3章「60年代のブルデューと社会調査」
  • 106 ブルデュー先生回顧して曰く:「レヴィ=ストロースは自分の学問を、民族学(ethologie)と名付ける代わりに人類学(anthropologie)と名付けました。この名称は、アングロサクソン流の意味と古来からのドイツ哲学風の意味…を統合したもので、これによって彼は人間科学を高尚なものとなし、人間科学は…哲学者たちさえも参照せざるを得ない高貴な学となったのです。」
  • 124 「1960年代のフランス社会学は、思弁的社会学から経験的社会学へと主軸が転換する時期であると考えられるが、アロンはその転換について行くことができなかった。その代わり、ブルデューが新たな時代の社会学を担うことになるのである。それはしかし、アロンの支えがあってこそであった。」
  • 126の長めの引用文、「データを集める当の対象をどうやって構成するか」という表現が含まれていて、こういう重要なフレーズは流石にこの場で敷衍してくれないとあかんのではないか。
  • 128以降の幾何学的データ分析の解説のあたり、ちょっとは図とかいれといてくれないとあかんのでは。
  • 関係論的思考が大事ですというフレーズは繰り返し登場するが、これの解説は何処でやってくれるのか。
  • 131 「この要約が示しているのは、ブルデュー幾何学的データ分析には、界を対象とした分析と社会空間を対象とした分析があるということである」(131)と言うんだけど、ここまでのところ、〈界〉も〈社会空間〉も、それがどこに登場するどんなもんなのか教えてもらってないのでは。
  • 132 『メチエ』英語版におけるラザースフェルド批判について。
  • 133 「彼[=ブルデュー]は調査の実践に関わる技術的問題を、「対象の構成」として捉えた(…)。この対象の構成という考え方がフランス的エピステモロジーの伝統に特徴的な発想であり、ブルデューはそれを調査の実地経験を積みながら調査の過程に活かしていった。」
  • 146に「フランスのラザースフェルド派」が再度登場。
    • 「ラザースフェルド派」、明確な敵役として登場させているからには、やはり具体的にどこがまずいのかを突っ込んで検討してくれないと──そしてそれをブルデューの特徴づけとして使ってくれないと──あかんかったのでは。
    • 近くに「対象の構成」も再び登場。
  • 147
    バシュラール:科学的事実は獲得され・構築され・確認される。
    ・経験主義:科学的行為を事実確認に還元してしまう。
    ・コンベンショナリズム:構築の前提のみを事実確認に対置させる。

後者はどういうことでしょうか。

  • 148 バシュラールを踏まえたブルデュー派認識論における認識過程の序列:
    ①認識論的断絶
    ②対象の構成
    ③事実確認
    • 「断絶」と「構築」は、
      ・(常識に依存した・感覚と内省に基づく)ナイーブな対象構築からの断絶
      ・科学的に適切な対象構築
      というかたちで裏表になってる模様。
  • 153 引用文:「ブルデューらは、技術的な作業を行っているときでさえ、何かしらの理論に囚われることは避けがたいと指摘する。「対象の構成」とは、対象にアプローチする方法の選択と技術的な手続き全体における理論の関わりを意味している。… 我流社会学と手を切って対象と向き合うには、自らの一連の研究プロセスを対象化できる理論を備え、その理論をも対象化しなければならないのである。」
    • 「我流社会学と手を切って対象と向き合うには」の
      ・「我流社会学と手を切って」が切断で、
      ・「対象と向き合うには」が構成
      でありますね。
第4章「三つの基礎概念の形成」
  • 171 〈シェム/シェマ〉についてピアジェ先生の曰く:「イメージの図式性を指示するために「シェマ」という用語を使おう。シェマは単純化されたイメージ(たとえば、町の地図)であるのに対し、シェムは行為において繰り返され一般化されうるものを指す。」
  • 173 ブルデュー「私たちは系統だった道徳や倫理を持たずに実践的な状態で原理を持てる」
  • 三つの概念の出自:
  • 185 ジェンクスがブルデューに読み取った「文化的再生産論」の骨子
    ・支配階級が被支配階級に文化を押し付け、階級の構造が再生産される

ここではアルチュセールブルデューがごっちゃにされていると。

第5章「「階級」と社会空間」
  • 292「私はブルデューの問題設定をこの[主観主義と客観主義のような]対立項に還元するべきではないと考える立場をとる。なぜならば、ブルデュー社会学的思考が生成されていく過程は、諸々の個別具体的な状況における彼の知的格闘が相互に連鎖反応を起こしていった帰結だからである。」

まことにごもっともな見解であるが、ならばなぜ著者はこの本で──ブルデューが自分の仕事について何をどう述べたかではなく──その「連鎖反応」の方を紹介してはくれないのだろうか。

第6章「社会学的認識と反省性」
  • 333 ブルデュー先生曰く「ある時代の思考され得ないものの中では、思考され得ないものの全ては倫理的ないし政治的な資質の欠如に起因するのだが、このような能力は考えられないものを重視し考慮に入れるようにうながすのである。」

どういうことでしょうか。

  • 334 次のページで著者のパラフレーズして曰く「同時代の風潮や価値観に包まれると思考が停止ないし限定されてしまうことは誰にとっても大いにあるということであり、思考の可能性を広げるには倫理的・政治的な資質…が欠かせない」

わからないね。

  • 引用文中の「資質」と「能力」が同じものを指すのだとすると、
    ・〈思考されえないもの〉は倫理的ないし政治的な資質の欠如によって生じる
    ・倫理的ないし政治的な資質は〈考えられないもの〉を考慮に入れるよううながす
    と、同じことをひっくり返して二回言ってることになりますが。そういうことなんだろうか。
  • この章では「反省性」について二つにわけて紹介する。
    • 一つ目:同じフィールドに繰り返し立ち返ることで、自分の研究自体を検討するもの(アルジェリア研究など)
    • 二つ目:学者である者が、学者の世界を研究対象にするもの(『ホモ・アカデミクス』)
補章「「中範囲の理論」以後の社会学的認識」
  • 352 例の表現:「GTAには単なるアプローチに留まらない認識論が欠如している」
  • 354 例の表現:「分析社会学の議論で欠如しているのは、体系的な認識論である。」
  • 355 意味わからん文章1:「GTAにおいてはデータをどのように取るかは優先事項として最も高い問題の一つであろう。それゆえ、GTAは本当に理論と言えるのかという疑念はつねに生じうる。」
  • 355 意味わからん文章2:分析社会学においては、「どのように認識するかという問題は必ずしも重視されていない。… 量的調査においては研究者自身が調査表の回収を行うわけではないため、認識問題は計量分析の際のデータクリーニングで済ませることが可能だということだろう。」
  • 364 アーベントによる「理論」の類型:
    ①一般的諸命題(の体系)
    ②特定の社会現象の説明
    ③経験的現象の解釈
    ④学説の解釈と検討
    ⑤世界観としての社会世界の捉え方
    ⑥規範的含意を伴う観想
    ⑦現実をとらえるための理論的省察
  • 375 〈認識論的問題〉なる語の定式:「社会調査から理論形成へ向かうにしても、理論をデータによって検証するにしても、理論はどこからやってくるのかという問いを外すことはできない。また得られたデータを無批判に用いることはできないし、何らかの理論的前提なしにデータを得ることはできない。マートンもその他の「中範囲の理論」論者も、こうした認識論的問題を十分には検討できていない。」

何が問われているのだろうか。

これって「反省」じゃないですか?リスト

こういうの、ふつう「反省」って言いませんか。

第2章「哲学徒のアルジェリア経験」
  • 78 「あらゆる前提を疑いながら機転を利かせ、自らの置かれている状況を客観視すること」

これ、反省では?

第3章「60年代のブルデューと社会調査」
  • 143 ブルデュー先生『ホモ・アカデミクス』に関説して曰く:「私がこの研究を進めながら目論んでいたのは、社会学という活動それ自体に対して一種の社会学的テストをおこなうことでした。〔当時〕社会学者も社会世界の中に身を置いている以上、必然的に社会世界に対する社会的に定められた視点を取らざるを得ないという事実を持ち出して、社会学の学問性を疑問視しようとする人々がいました。私はそうした人々の主張と正反対に、社会学者はある程度この歴史主義的循環を逃れられるということを証明したかったのです。この社会世界の中に作用しており、同時に社会学者自身にも影響を与えているさまざまな決定要因の効果を中和化するために、社会科学がそのなかで生み出された社会世界についての知識を支えにする術を知る、というのがその条件です。」
  • ブルデュー先生また曰く:「『ホモ・アカデミクス』は、私が60年代初頭からじゅうぶんな自覚をもって始めた一種の「認識論的実験」の、少なくとも自伝的な意味では頂点といえる研究です。この実験を開始したとき私は、ある異郷の世界、アルジェリアの農民や労働者の世界における親族関係の論理を発見するために使っていた調査の方法を、私にとって最も身近な世界に適用し始めました。」
  • それを受けて著者の曰く:「民族学的研究を含むブルデューの質的調査は、『ホモ・アカデミクス』(…)という、フランスのアカデミズムの社会学へと連なっている。そこで一貫しているのは、反省性である。研究対象を創る者、つまり対象化する主体、それを対象化する試みである。」

それ、反省では?

  • 153 引用文:「 我流社会学と手を切って対象と向き合うには、自らの一連の研究プロセスを対象化できる理論を備え、その理論をも対象化しなければならないのである。」
第5章「「階級」と社会空間」
  • 314「ブルデューの方法の特徴として反省性(reflexiveite)の要請がある。例えば、彼は次のように述べる。
    「科学的主体が経験的主体との間に本当の意味で切断を行い、と同時に「専門家であれ素人であれ、そうした視点とは知らないである視点に閉じ込められている他の行為者たちとの間にも真の切断を行うのは、対象に対する自分の素朴な視点を対象として取り上げる科学的手段を手に入れることによってである。」」

これ、反省では?

第6章「社会学的認識と反省性」
  • 323 ヴァカンからの引用:「ブルデュー版の再帰性=反省性は、
    ・知識人の実践についての理論を
    ・社会的批判理論のなかのなくてはならない構成要素(その理論の必要条件)として包摂するもの
    と大まかに定義できる」
  • 326 対象化する主体の対象化
  • 332
    ・同じフィールドに繰り返し立ち返り、フィールドについてだけではなく、あわせてかつて書いた自分の論文の方も検討しよう。
    ・すると自分がどんな前提に依拠していたか、その調査はどんな条件に依拠していたか、当時自分が何を考えることができなかったかがわかるよ。

これ、反省では?


  • 第4章 三つの基礎概念の形成
    • 1 三概念の初期構想 
    • 2 「再生産」以後のブルデュー 
    • 3 『実践理論の素描』における「プラクセオロジー」 
    • 4 一九七〇年代における三つの基礎概念の展開 
    • 5 性向と分類 
    • 6 ブルデューの理論的思考 
    • 7 ハビトゥス論の構図 
    • 8 権力界
  • 第5章 「階級」と社会空間
  • 第6章 社会学的認識と反省性
    • 1 反省性の概念
    • 2 反省性の実践とフィールド 
    • 3 科学的知識の産出過程の分析
    • 4 価値自由と反省性
  • 補章 「中範囲の理論」以後の社会学的認識
    • 1 現代社会学と中範囲の理論
    • 2 社会学における理論的なものと経験的なもの 
    • 3 ブリュノ・ラトゥールの社会学批判 
    • 4 ブルデューにおける理論と反省性
  • 結論