ルーマン『社会の法』第5章「偶発性定式としての正義」

つづき。

承前


■第8章 IV節
再掲

  • 〈冗長性/変異性〉は、システムに関連した区別である。[p.503]
    • 妥当はオートポイエーシス(の統一性)を象徴する。
    • 根拠とは冗長性をあらわす象徴である。[p.503]
      • 論証は冗長性のために作動する。


■第5章 I節

[システムの自己関係を、当のシステムが「反省」によって完全に把握することはできない。]  「反省」を実行するのは他ならぬこの自己関係だから。 「反省」が生じる際には、すでに自己関係が動きだしており、また動き続けていなければならない。

この問題を解決することができるのは、そのつどの《ローカルな》言及だけである。つまり、《妥当している法》として働いている特定のテクストを、そのつど引き合いにださなければならないのである。その際、

  • 法の妥当という形式的シンボルが示しているのは、システムへの関係である3。ただしそれによって システムの内容が特定されるわけではないのだが。[p.236]
3 第2章VIII節。

ここで問題になっているのは、「システムのなかでシステムの統一性を表現すること」なのである。──だからこそわれわれは、正義というこのテーマを導入するために、かくもまわりくどいやり方をしているわけだ。

  • 妥当 というとき考えられているのは、システム内で流通する 諸作動 を結びつけるシンボルである。このシンボルによって、作動の結果を想起して・それを回帰的に再適用できるのである。一方、
  • 正義 の場合、問題は システムの 自己観察・自己記述である。二分コード[を用いた作動]のレベルでは、自己観察・自己記述 はパラドクスに突き当たる。[...] しかしプログラム のレベルでは、統一性を投企する可能性が残されている。あらゆるプログラムのためのプログラムが 存在しうるかもしれないから。そこに 正義 という理念の意味があるのではないかと推測するのは 自然なことである。[...]

しかし 正義 の規範を[...] 、どのようにして再特定化するべきかについては、まだ不明確である。[p.239-240]

 だからわれわれはまずもって、区別を用いて 正義 の問題を限定しておくことにしよう。

  • 正義 というとき問われているのは自己言及である。
    • ただしそれは、作動 としてではなく、観察 として、である。
    • また、コード のレベルにおいてではなく、プログラム のレベルにおいて、である。
    • また、理論 のかたちでではなく、(えてして違背を生みがちな)規範 のかたちで、である。
これらすべてが意味するのは、
  • システム は、不正義(あるいは、多かれ少なかれ正義)でありうる。
  • システムの作動レベルのオートポイエーシスは正義ではありえない。
  • 不変であらざるをえないコードも正義ではありえない。
ということである。

このような限定は、問題設定を精緻化するためには重要であるが、しかしそれによって、ポジティブにはいったい何が規定されるのだろうか。われわれは、

  • 正義 に関して生じているのは、自己言及的な規範が 自己と対面することである

と考える。[では、]

  • [Q] この自己対面は、いかにして特定化されうるのだろうか。
    • システムはいかにして自己の統一性を、規範的プログラムのなかで表現することができるのだろうか。[p.240-241]
しかもそのプログラムは、システムの内部で適用されうると同時に、あらゆるものへも適用できなければならないのである。

[Q] が第5章の課題。


さて。

  • 法的な諸作動妥当シンボルへのレリヴァンスを持つ。(= 法システムオートポイエーシス = 法秩序の統一性)
    論証 は 二次の観察 である。
    論証 は 諸帰結の比較 をとおして 根拠づけ をおこなう。
    〜 法的な諸決定 の間には 一貫性がなければならない。
    正義規範的-プログラムである。


では、「冗長性」の位置は?  ──って、クイズみたいな本を書くのは やめてくれ。