昨年のログを見返しつつメモ。
- 妥当:作動を結びつけるシンボル
- 正義:観察を結びつけるシンボル
って書いてあるね。って。俺が書いたんだが。
ISBN:458800767X/ISBN:4588007688
おぉ。しかも次のエントリにはこんな引用が。偉いぞ過去の俺。
『社会の法』(1993) の「正義」の章では、初発の定式として、こんなふうにいわれておりますな:
だからわれわれはまずもって、区別を用いて正義の問題を限定しておく事にしよう。すなわち正義という時に問われているのは自己言及であるが、
- ただしそれは作動としてではなく、観察としてである、と。
- またコードのレベルにおいてではなく、プログラムのレベルにおいてである、と。
これらすべてが意味するのは、
- 不正義の(‥)法システムが存在しうるということである。ただし、
- システムの作動レベルのオー■ポイエーシスも、
また不変であらざるを得ないコードも、《正義》ではありえないのである、と。[p.240]「不正義の(‥)法システムが存在しうる」ってのが、ちとわからないですが。
「《正義》というものは、法総体について問うものなのであって、作動やコードについて問う(/問いうる)ものではないのだ」、ということか。──うん。そのようですね。事柄をどんな水準で考えようとしているのかは明白。議論の水準を区別してるだけの文章。