つづき。そろそろ 10周 20周 を超えた。
宿題
- 「論証理論」へのコンタクトポイントをピックアップ
- 「テクスト」についての議論をピックアップ
内容見出し(仮
本章の主要テーマ: 論証の可能性条件(である冗長性)はいかにして組織されるのか。
I |
■概論: ・法システムにおける二次の観察としての「論証」 ・テクストによるテクストの生産 |
■はじめの一歩:
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II |
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III | 「テクスト」をめぐる〈解釈-と-コミュニケーション〉: コミュニケーション・メディアとしての「根拠」 |
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IV | 中間的まとめ 二次の観察(=論証)についての、〈冗長性/変異性〉概念を用いた 三次の観察(=システム論的論証論) |
http://d.hatena.ne.jp/contractio/20090509#p1 ■議論の移行: 個々の「決定」や「論証」から、「システム」水準へ ここでルーマンは、「移行」のために「象徴」概念に訴えている。
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V | 論証にとっての「帰結」の位置: 「根拠」はいかにして根拠付けられるのか |
■結論:
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VI | VIII準備1:「概念」(〜自己言及ゼマンティク) |
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VII | VIII準備2:「利益」(〜他者言及ゼマンティク) |
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VIII |
法システムの自己言及/他者言及 〈概念/利益〉〜〈形式的論証/実質的論証〉 |
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IX | 「論理的推論」の位置 |
■「冗長性の組織化」に対する論理の貢献
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X | まとめの考察: 二次の観察-と-機能分化 | 〜経済における「価格」、政治における「世論」、芸術における「作品」、教育における「教育意図、子ども」etc.との比較 |
考察
このへん↓、あとで原著を確認のこと。
■II節14段落
- [a] 調整という観点から見れば、冗長性はシステムの《見えざる手》(invisible hand)なのである44。[...]
- [b] あらゆる作動において、「意図された選択」と「システムの冗長性の意図せぬままの産出」とが区別されなければならない。[...]
- [c] [ところで]法理論家のなかには、「法に関する問題を処理する際に 法の内部から課せられる制限」を指すために、制度という概念を用いる者がいる。
しかしそこでは、「制限」と「根拠付け」とが明確に区別されているとはいいがたい。だから《習慣》(custom)も《実践理性》(practical reason)も、制度というこの概念に属するものとされているのである。
あるいはこの概念は、「理性へと定位した実践的論証における慣習」を指し示しているといいたいのかもしれない。[ならば]その点では、法実践の自己解明の試みであるこの概念は、一次の観察に拘束されたままである。- [d] [冗長性という概念を用いるならば、]「法的論証における根拠付け」という営みを、より距離を保って考察できるようになる。そうすれば、「可能な組み合わせ領域の制限(制度)」が、「根拠付けの可能性の条件(制度)」でもある ということを──つまり、「冗長性こそが、法的論証の可能性の条件である」、ということを──、常に念頭においておくこともできるだろう。[p.484-485]
■II節15段落 前半
以上で明らかにしてきたことに従えば、問題は「誤りを認識し、回避することだけである」と考えるのを、放棄できるはずである。法律家にとってはまさにそのことが第一の関心事であるにしても、である。二次の観察は、法システムを、その作動様式において(作動を、その根拠、目的、正しさの条件においてというだけでなく)主題化しようとする。この観察から見れば、問題は、多数の決定相互の関係において、十分な一貫性を確立することなのである。[p.485]
■II節15段落 後半
[二次の観察からみれば、]問題は、多数の決定相互の関係において、十分な一貫性を確立することなのである。ただしその際、どの決定も、ほかの決定の集合全体を定義したり、境界付けたり、ましてや内容を認識したりすることは出来ない、という条件がつく。だから、《その代わりに》何かが生じなければならない。
さもなければ、システムが個々の決定の単なる集積へと解体してしまうのを防ぐことができない。そうなれば、ここの決定はお互いに関して何も言うべき事を持たないのであって、観察者によって選ばれたメルクマールのもとでのみ、境界付けられた集合として(...)認識されうる、ということになろう。この問題への答えとなるのが、十分な冗長性が備わっているということなのである。
正義は諸決定の間の一貫性のうちにある、というのなら、こうもいえる: すなわち、正義とは冗長性のことである、と。
正義はこの点で、決定に関するほかの理念から──たとえば、可能な限り多くの情報を勘案した上で、個々の決定を最適化することを目指すような理念から──区別される。[p.485-486]
まず、II節15段落 後半について。
ルーマンは、「自らを作り上げている-現実に・実際に存在する-まとまり」のことをシステムと呼ぶ。逆に、「観察者によって選ばれたメルクマールのもとでのみ、境界付けられた集合」のほうはシステムとは呼ばない。(もちろん、後者のほうが「通常の・常識的な」システム概念の使用法なのであり、したがってルーマンの語用はまったくもって非常識なものである。)
ここでの場合は、だから、「個々の決定の集積」以上の何事かが生じているということを示せなければ、「ここにシステムがある」とは言えない、ということになる(か、「ここにはシステムはない」と述べることになる)。
問題は、ルーマンがここでほんとうに「それ以上の何か」についてちゃんと示せているかどうか、
言い換えると、ここでの「答え」は「十分な冗長性」だと名言されているのだが、その「答え」をルーマンはどうやって入手したのか、
ということなのであるが....。いまのところ それがさっぱりわからない。
続いて II節14段落について。
毛利論考では、この(直前に書いた)問題が「ミクロ-マクロ・リンク」として捉えられている*。
なるほどそれは、たとえば「見えざる手」についての、そしてまた「(個々の決定・論証ではなく)「システムの」変数としての冗長性」についての ありうる読みではあるかもしれない。しかしここには相当にたくさんの考えるべき問題がある。──少なくとも二つはある。
「〈作動/システム〉の関係を 〈ミクロ/マクロ〉の関係として把握する」ということは、目下の論点の場合、「個々の決定・論証は持っていない属性、能力、あるいは特徴」が、「作動の集積的総体としてのシステム」においては「創発」している・・・といったようなことを意味するはずである。しかしこれだと、II節14段落の [b] も、II節15段落 後半の 《その代わりに》 も、なぜそんなことがいわれなければならないのか理解できないのではないだろうか。
- まずなにしろ、[b]は、「あらゆる作動において システムの冗長性が産出されている」と述べている。ならばそれがどういうことなのかが検討されなければならない。
さらに手ごわいのが 《その代わりに》 のほうであるが、
- もしも「冗長性」が「マクロ属性」なのであれば、そもそもこの但し書きは必要がない。個々の決定や論証は、それとは関わりなく進められるだろうから。しかし 《その代わりに》 が述べているのは、まさにそれとはちょうど逆のことではないだろうか。なにしろ 冗長性は、ある決定において「ほかの決定の集合全体を定義したり、境界付けたり、内容を認識したりすること」《の代わり》 となるものだ、といわれているのだから、冗長性は、個々の決定にたいして「何らかの」──「作動総体のコントロール」ではないが、 《その代わり》 であるといえるような 何らかの──関連性を持っているはずだろう。ならばその関連性がどのようなものであるかが示されなければならない。
付け加えれば。〈ミクロ/マクロ〉リンクという議論構成は、別の問題もある。毛利さんは、この問題を検討するには経験的な研究が必要だ、と述べている。
しかし/では、そこでどのような研究が行われるべきなのだろうか。研究者は何を調べればよいのだろうか。──そのことが、この議論からではわからないのである。
・・・というわけで、〈ミクロ/マクロ〉解釈はいろいろ問題があるように思われるのであった。
仮にやはりそれでも、〈決定・論証/冗長性〉の関係は〈ミクロ/マクロ〉関係にあるのだ、と言えたとしよう。その場合でもやはり、次のことは問題となる**。
[d] 「冗長性こそが、法的論証の可能性の条件である」 ということは、「マクロ変数である冗長性が、論証というミクロな実践に 効いている」ということだろう。ならば少なくとも、その「効いている」ということが、個々の論証において見て取れるはずである。
『ミクロ‐マクロ・リンクの社会理論―「知」の扉をひらく』所収の論文でルーマンは、「意味システム」である社会システムたちについて論じる際には、量的な区別である〈ミクロ/マクロ〉は不適切で、その代わりに〈相互行為/社会〉の区別を用いるべきだ、と主張しているのだから、である。しかし、ここにはさらに困ったことがある。
- まず、当のルーマンのこの主張が、なにを言っているものであるのかがよくわからない、という点がある(やれやれ。
- さらに困ったことに、毛利さんが、上の問題を「ミクロマクロ問題」として規定するさいに、まさにルーマンのこの論文を引き合いに出している(!)、という問題がある。
- そして──これは [1] からの当然の帰結だが──、〈相互行為/社会〉区別を導入することが、当該問題に対してどのような含意をもつのかがわからない、という問題がある。
** これは、まさにその同じ論文集に掲載された論文において、エマニュエル・シェグロフが指摘した論点である。