ルーマン『社会の法』第8章「法的論証」インデクス

つづき。そろそろ 10周 20周 を超えた。

宿題
  • 「論証理論」へのコンタクトポイントをピックアップ
  • 「テクスト」についての議論をピックアップ

内容見出し(仮

本章の主要テーマ: 論証の可能性条件(である冗長性)はいかにして組織されるのか。
I ■概論:
・法システムにおける二次の観察としての「論証」
・テクストによるテクストの生産
■はじめの一歩:
  • 一次の観察: テクストの解釈→ex.「どのような意図で書かれた?」〜二次の観察への移行
  • 二次の観察: 自分 or 他人がテクストをどのように解釈するか(の観察)〜論証
■論証において用いられる概念とは?:「誤り」や「根拠」。本章の主要なトピックは後者。
  • 論証において「論理」は、誤りに対する監視装置としては働くが、決定の根拠付けに用いられるのではない(→IX)。
■「論証理論」とのコンタクトポイント:
  • 「根拠付けの論証」に関する理論は、ますます「手続き原理」のほうへと移っていっている。[p.472]
  • 論証に規則や基準の箍をはめようとする論証理論は、実際におこなわれている論証実践とすれ違ってしまう。日常的な実務において、「根拠付け」実践のなかで原理がどのように使用されているのかを評価できない。[p.473-475]
ルーマンの主張=本章の課題:
  • 論証を「原理」や「手続き」によって把握しようとしても無理。論証の可能性条件について検討することを通じて、「理性(の自己論理)」に対するオルタナティヴを考えてみるのが吉。[p.496]
II
  • 「論証理論」概観〜論証の自己定式:
    ・論証とは、決定に関して説得力を持つ根拠を示すことである。[p.477]
  • 「論証」のシステム論的定式:
    ・論証とは、コード値の帰属についての-意見の相違 に反応して生じる-法システムの 自己観察 である。[p.479-480]
  • ここで、論証がシステム機能を満たすための可能性条件について問うために 〈情報・冗長性・変異性〉概念を導入する。[p.480]
    • 法理論においてしばしば召還される「制度」(〜「習慣」「実践理性」)などの概念は、一次の観察に拘束されている。←「法制度の自己解明」の試み。
    • そこから離れて距離をとって観察すれば、「可能な組み合わせ領域の制限(〜制度)こそが 根拠付けの可能性条件(〜制度)である──冗長性こそが論証の可能性条件である──」という着想にいたる。[p.485]
  • 一次の観察/二次の観察
    • 法律家にとっての第一の関心事:誤りを認識し回避すること。
    • 二次の観察は、法システムをその作動の(根拠、目的、正しさの条件においてというだけでなく、その)様式において主題化する。この観察からみれば問題は 多数の決定相互の関係において、十分な一貫性を確立することなのである。
      • [こうした一貫性を正義と呼ぶことはできるが、正義によって論証を直接コントロールすることはできない。だから迂回した議論が必要となる。][p.485]
■冗長性と変異性
  • 冗長性とは、すでに手元にある情報のことであり、それによってさらなる情報を加工することが可能になる。
  • 変異性とは、さらなる情報を処理するにあたってまだ手元にない情報のことである。[p.487]
    • 類比: 冗長性と変異性は相互に強めあうことができる。相互強化の可能性を捜し求めるために用いられるのが類比である。[p.489]
III「テクスト」をめぐる〈解釈-と-コミュニケーション〉:
コミュニケーション・メディアとしての「根拠」
  • 「根拠」の条件: 反復可能性
  • 「システム論的定式」から生じる問い: いかにしてシステムは自己観察を(〜自己自身を)含めたかたちで、自己のオートポイエーシスを可能にするのか。
IV中間的まとめ
二次の観察(=論証)についての、〈冗長性/変異性〉概念を用いた 三次の観察(=システム論的論証論)
http://d.hatena.ne.jp/contractio/20090509#p1
■議論の移行: 個々の「決定」や「論証」から、「システム」水準へ
ここでルーマンは、「移行」のために「象徴」概念に訴えている。
  • 〈冗長性/変異性〉は、システムに関連した区別である。[p.503]
    • 妥当はオートポイエーシス(の統一性)を象徴する。
    • 根拠とは冗長性をあらわす象徴である。[p.503]
      • 論証は冗長性のために作動する。
      • [システム変数としての〈冗長性/変異性〉/〈自己言及/他者言及〉に対応したゼマンティクとしての〈概念/利益〉][p.504]
V論証にとっての「帰結」の位置:
「根拠」はいかにして根拠付けられるのか
■結論:
  • 論証の根拠付けは、法的決定の帰結に対する評価によってなされる。[...] 根拠付けは、さまざまな規則を採用した場合に生じるであろう さまざまな帰結を評価することをとおしておこなわれる。[p.508]
■問題:
  • [法史をみると、帰結の評価・比較のために数多くのゼマンティクが用意されていることがわかるのだが、]こうした事態を観察するとき、われわれはいったい何を観察していることになるのだろうか?
    • 注意: 「論証において決定の帰結を見越すこと」は、しばしば「法的決定を目的プログラム化すること」と混同されてしまう[が、それは間違っている]。[p.509]
  • これを議論するためには、〈システム内的な帰結/システム外的な帰結〉を区別する必要がある。[p.511]
ここに続く箇所の議論がフォローできない。
VIVIII準備1:「概念」(〜自己言及ゼマンティク)
  • 概念は、それだけを取り出してみれば決定を指図してくれない。それは法的解釈の建築素材であるが、その解釈のほうは条件プログラムにかかわっており、そして そのプログラムが実践的にどれくらい重要であるかが、再び概念の輪郭のほうへ影響を及ぼし返していく。[p.518]
  • システムの冗長性は概念を通して、二次的な、メタ・テクストレベルで用いうるような確実さの網目を手に入れる。[p.520]
VIIVIII準備2:「利益」(〜他者言及ゼマンティク)
  • 「利益法学」(イェーリング)→ロスコー・パウンド〜合衆国における「リアリズム法学」
    • 「概念法学」批判 [「自由」を「利益」に取り替えたもの]
VIII 法システムの自己言及/他者言及
〈概念/利益〉〜〈形式的論証/実質的論証〉
  • 法システムは、形式的論証によって自己言及を、実質的論証によって他者言及を、実行する。[p.524]
    • 概念とは、法的事案を扱った経験が蓄積されたものである。ただしそれはもはや経験として受け取られたり、批判的に論じられたりしないのであるが。
    • 利益の役割は、環境の有意性自己組織化するための触媒となることである。
      • 法システムそのものは 決定を目指しているわけだから、関心の対象となるのは次の点だけである。すなわち、問題となっているのが要保護的な利益なのかどうか、コンフリクトの事案においてはどの利益が犠牲にならなければならないか。論証において示されなければならないのはこの点であり、またこの点だけである。[p.525]
  • 利益衡量という定式は、「妥当している法」ではない。この定式が関わるのは「事態を把握する」という問題であって、「決定を法的に根拠付ける」ということではない。[...] それは他者言及と自己言及を媒介する[という、システムにとっての根本的で持続的な問題に資する]わけではない。[p.529]
  • 「利益」というゼマンティクの登場は、より高度な変異性を持つ秩序が必要とされていることを告知している。経済理論においてそれが生じたのは ずっと以前のことであった。政治理論では17世紀に、美学では18世紀に生じた。しかし法理論においては、ずっと後になってからのことであった。すなわち、法の実定化が貫徹したあとではじめて、利益のゼマンティクが効果を発揮しはじめたのである。[p.531]
IX「論理的推論」の位置 ■「冗長性の組織化」に対する論理の貢献
  • ネガティヴ: 根拠付けを反証し、方向を切り替える。
  • ポジティヴ: 決定の帰結を予見する。霍乱を一定の方向に導く。
    • 論理は、ある変更の影響が見通しがたいほど遠くまで及ぶことからシステムを保護する。
■局所的な合理性
  • 政治的合理性は戦略的合理性である。経済的合理性が貸借対照表と予算から離れることは出来ず、したがって 何が達成可能なのか、また情報に対してペイすることが意味を持つのはどれくらいまでなのかに関しては、厳しい制約が果たされることになる。同様に、最大級に明敏な論証によろうとも、特定の問題解決が常にどこから見ても最善であるとのテストに合格するなどということを保障するわけにはいかない。[p.534] [調達可能なのは「満足解」だけ]
Xまとめの考察: 二次の観察-と-機能分化 〜経済における「価格」、政治における「世論」、芸術における「作品」、教育における「教育意図、子ども」etc.との比較
考察

このへん↓、あとで原著を確認のこと。

■II節14段落

  • [a] 調整という観点から見れば、冗長性はシステムの《見えざる手》(invisible hand)なのである44。[...]
  • [b] あらゆる作動において、「意図された選択」と「システムの冗長性の意図せぬままの産出」とが区別されなければならない。[...]
    • [c] [ところで]法理論家のなかには、「法に関する問題を処理する際に 法の内部から課せられる制限」を指すために、制度という概念を用いる者がいる。
      しかしそこでは、「制限」と「根拠付け」とが明確に区別されているとはいいがたい。だから《習慣》(custom)も《実践理性》(practical reason)も、制度というこの概念に属するものとされているのである。
      あるいはこの概念は、「理性へと定位した実践的論証における慣習」を指し示しているといいたいのかもしれない。[ならば]その点では、法実践の自己解明の試みであるこの概念は、一次の観察に拘束されたままである。
  • [d] [冗長性という概念を用いるならば、]「法的論証における根拠付け」という営みを、より距離を保って考察できるようになる。そうすれば、「可能な組み合わせ領域の制限(制度)」が、「根拠付けの可能性の条件(制度)」でもある ということを──つまり、「冗長性こそが、法的論証の可能性の条件である」、ということを──、常に念頭においておくこともできるだろう。[p.484-485]
44 はシャピロの「冗長性」論文。

■II節15段落 前半

 以上で明らかにしてきたことに従えば、問題は「誤りを認識し、回避することだけである」と考えるのを、放棄できるはずである。法律家にとってはまさにそのことが第一の関心事であるにしても、である。二次の観察は、法システムを、その作動様式において(作動を、その根拠、目的、正しさの条件においてというだけでなく)主題化しようとする。この観察から見れば、問題は、多数の決定相互の関係において、十分な一貫性を確立することなのである。[p.485]

■II節15段落 後半

[二次の観察からみれば、]問題は、多数の決定相互の関係において、十分な一貫性を確立することなのである。ただしその際、どの決定も、ほかの決定の集合全体を定義したり、境界付けたり、ましてや内容を認識したりすることは出来ない、という条件がつく。だから、《その代わりに》何かが生じなければならない。

さもなければ、システムが個々の決定の単なる集積へと解体してしまうのを防ぐことができない。そうなれば、ここの決定はお互いに関して何も言うべき事を持たないのであって、観察者によって選ばれたメルクマールのもとでのみ、境界付けられた集合として(...)認識されうる、ということになろう。

この問題への答えとなるのが、十分な冗長性が備わっているということなのである。

正義は諸決定の間の一貫性のうちにある、というのなら、こうもいえる: すなわち、正義とは冗長性のことである、と。
正義はこの点で、決定に関するほかの理念から──たとえば、可能な限り多くの情報を勘案した上で、個々の決定を最適化することを目指すような理念から──区別される。

[p.485-486]

まず、II節15段落 後半について。
 ルーマンは、「自らを作り上げている-現実に・実際に存在する-まとまり」のことをシステムと呼ぶ。逆に、「観察者によって選ばれたメルクマールのもとでのみ、境界付けられた集合」のほうはシステムとは呼ばない。(もちろん、後者のほうが「通常の・常識的な」システム概念の使用法なのであり、したがってルーマンの語用はまったくもって非常識なものである。)
 ここでの場合は、だから、「個々の決定の集積」以上の何事かが生じているということを示せなければ、「ここにシステムがある」とは言えない、ということになる(か、「ここにはシステムはない」と述べることになる)。

そして、「一貫性」を(たとえば「正義」のようなものとして)理念の形で導入したとしても、それによって個々の決定や論証をコントロールすることは出来ない
=正義を、個々の決定において局所的に実現することはできない
のだから[次段落参照]、なにか別のところをあたってみるしかないのだ、という話をしているわけである。

問題は、ルーマンがここでほんとうに「それ以上の何か」についてちゃんと示せているかどうか、

つまり、「システムがある」と言えているかどうか、そして、そのためにどのような手続きに訴え・どのような成果を得た上でそう主張することが出来ているのか、
言い換えると、ここでの「答え」は「十分な冗長性」だと名言されているのだが、その「答え」をルーマンはどうやって入手したのか、

ということなのであるが....。いまのところ それがさっぱりわからない。

最初のステップで用いられているのは「象徴」概念であることまでは確認できるが。


続いて II節14段落について。
 毛利論考では、この(直前に書いた)問題が「ミクロ-マクロ・リンク」として捉えられている*。

これは、〈作動/システム〉の関係を、〈ミクロ/マクロ〉の関係として把握している、ということを意味する。

 なるほどそれは、たとえば「見えざる手」についての、そしてまた「(個々の決定・論証ではなく)「システムの」変数としての冗長性」についての ありうる読みではあるかもしれない。しかしここには相当にたくさんの考えるべき問題がある。──少なくとも二つはある。

 「〈作動/システム〉の関係を 〈ミクロ/マクロ〉の関係として把握する」ということは、目下の論点の場合、「個々の決定・論証は持っていない属性、能力、あるいは特徴」が、「作動の集積的総体としてのシステム」においては「創発」している・・・といったようなことを意味するはずである。しかしこれだと、II節14段落の [b] も、II節15段落 後半の 《その代わりに》 も、なぜそんなことがいわれなければならないのか理解できないのではないだろうか。

  • まずなにしろ、[b]は、「あらゆる作動において システムの冗長性が産出されている」と述べている。ならばそれがどういうことなのかが検討されなければならない。

さらに手ごわいのが 《その代わりに》 のほうであるが、

  • もしも「冗長性」が「マクロ属性」なのであれば、そもそもこの但し書きは必要がない。個々の決定や論証は、それとは関わりなく進められるだろうから。しかし 《その代わりに》 が述べているのは、まさにそれとはちょうど逆のことではないだろうか。なにしろ 冗長性は、ある決定において「ほかの決定の集合全体を定義したり、境界付けたり、内容を認識したりすること」《の代わり》 となるものだ、といわれているのだから、冗長性は、個々の決定にたいして「何らかの」──「作動総体のコントロール」ではないが、 《その代わり》 であるといえるような 何らかの──関連性を持っているはずだろう。ならばその関連性がどのようなものであるかが示されなければならない。
書いてみて気がついたが、この二つは結局同じ作業である。


付け加えれば。〈ミクロ/マクロ〉リンクという議論構成は、別の問題もある。毛利さんは、この問題を検討するには経験的な研究が必要だ、と述べている。

なるほど、それはそうだろう。

しかし/では、そこでどのような研究が行われるべきなのだろうか。研究者は何を調べればよいのだろうか。──そのことが、この議論からではわからないのである。


・・・というわけで、〈ミクロ/マクロ〉解釈はいろいろ問題があるように思われるのであった。

ちなみにさらに。
仮にやはりそれでも、〈決定・論証/冗長性〉の関係は〈ミクロ/マクロ〉関係にあるのだ、と言えたとしよう。その場合でもやはり、次のことは問題となる**。
[d] 「冗長性こそが、法的論証の可能性の条件である」 ということは、「マクロ変数である冗長性が、論証というミクロな実践に 効いている」ということだろう。ならば少なくとも、その「効いている」ということが、個々の論証において見て取れるはずである。
すくなくとも/なにしろ「効く」からには、効くことが可能な理由=事情が、
言い換えると、「可能性条件」を、そのようなものとして利用可能である、という事情あるいは能力が
個々の決定・論証実践の側にあるはずだろう。
そしてこれは 単に 創発──「ミクロなものから-結果として-マクロなもののが生じる」ということ──を問題にしていればよい、というわけにはいかないことを意味している。
そして結局この論点も、上記二つの作業と「同じもの」を要求することになるのではないだろうか。
* ここでは脇においておくが、この解釈にはまずなにしろ「ルーマン解釈」上の疑問がある。
ミクロ‐マクロ・リンクの社会理論―「知」の扉をひらく』所収の論文でルーマンは、「意味システム」である社会システムたちについて論じる際には、量的な区別である〈ミクロ/マクロ〉は不適切で、その代わりに〈相互行為/社会〉の区別を用いるべきだ、と主張しているのだから、である。しかし、ここにはさらに困ったことがある。
  1. まず、当のルーマンのこの主張が、なにを言っているものであるのかがよくわからない、という点がある(やれやれ。
  2. さらに困ったことに、毛利さんが、上の問題を「ミクロマクロ問題」として規定するさいに、まさにルーマンのこの論文を引き合いに出している(!)、という問題がある。
  3. そして──これは [1] からの当然の帰結だが──、〈相互行為/社会〉区別を導入することが、当該問題に対してどのような含意をもつのかがわからない、という問題がある。
というわけで、まずは「ルーマン解釈」をめぐる複数の問題があるわけである。しかしまぁここではそれはさておくとして。
** これは、まさにその同じ論文集に掲載された論文において、エマニュエル・シェグロフが指摘した論点である。