気を取り直してもう一度。
ASIN:4769908083(4&10章)。isbn:4787786113/isbn:3531612816/isbn:3531141767
〈居合わせること〉が相互作用の「選択原理」として働くには、「再帰的に知覚可能な意味」の 特に〈社会的な次元〉が大事だよ:
[100308] 10章3節〈居合わせる copresence / Anwesen〉ということ
- 知覚とコミュニケーションのこのように素早く具体的な連携は、狭い空間においてしか生じえない。いうまでもなく、そうした連携は、知覚可能なものの範囲内でしかおこなわれない。
- しかし、知覚されうるであろうもののすべてが、だからといってそれだけですでに社会的に重要であるわけはないのだから、知覚可能ということだけでは不十分である。
- さらに別の選択原理がつけ加わるのであり、
そうした選択原理として用いられているのは、しかるべきコミュニケーションの実現が期待されるということである。[再帰的に]知覚可能な意味のとりわけ社会的次元が、選択の基準として用いられている。
知覚可能なものを探るさいに考慮されるのは、いまそこで進行しているコミュニケーションの一要因となっていることがらなのであり、あるいは少なくとも、そうしたコミュニケーションの経過にとって意義あるものとなることができることがらなのである。
別様に述べるなら、
それゆえ、このことから、相互作用システムの境界に関するいっそう精確な規定が可能になる。
主題は、〈事項的/時間的/社会的〉な次元それぞれにおいて、コミュニケーション(における 参与者の寄与)を制序する事ができるよ。
事項的次元、時間的次元についてはこんなかんじ:[040606]
相互作用における「再帰的知覚というコンテクスト」において大事なのは社会的次元だよ。
[040607] 4章6節:〈主題選択〉の 社会的次元
- とりわけテーマ選択の社会的次元が顕在化するのは、コミュニケーションをするさいに関与者たちが可視的な行為のやりとりをすることに多少とも拘束されているばあいである。
- つまり、関与者たちがコミュニケーションによって、
みずからの意見、みずからのかまえ、みずからの経験、みずからの願望、みずからの分別のある判断、みずからの関心など、自分自身についての何かを言い表すことで、この社会的側面が顕在化することになるのである。コミュニケーションは、また自己を呈示し合い、互いに知り合いになることに役立っている。そうであるがゆえに、コミュニケーションは最終的な効果においては、人びとがなんらかの表現様式をとらざるをえず、結局のところコミュニケーションにおいて表示されたとおりに在らねばならないということになってしまうのである。つまり誘惑者は、相手を愛さなければならないことになる。
「コミットメント」ですな。
つーか...。なんかものすごいトリヴァイアルな話をしているような気が.....
[100305] 10章3節:The Impossibility of Not Communicating
相互作用システムは、再帰的な知覚をとおして*コミュニケーションを進めるよう強いられている。
自分が相手によって知覚されているということを他我が知覚しており、さらに、その知覚されているということをみずから知覚していることもまた相手によって知覚されているということを他我が知覚しているのなら、他我が出発点としなければならないのは、みずからの行動が、こうしたことにもとづき調整されているものとして相手によって解釈されるということである。つまり、このばあい他我の行動は、それが他我にとって好都合であろうとなかろうと、コミュニケーションの一環として相手に理解される。
このことは、みずからの行動をコミュニケーションとしてもまたコントロールするということを、ほとんど不可避的に他我に強いるのである。そのばあいコミュニケーションするつもりのないコミュニケーションでさえ、なおコミュニケーションである。すなわち他の人と居合わせているときに、指の爪を熱心に弄ったり、窓から外をみたり、新聞で顔を覆ったりするばあい[→自己関与((c) ゴフマン)]には 慣習に基づいた許可*が一般に必要である。そういうわけで、次のことがじっさいに妥当している。すなわち、相互作用システムのなかではコミュニケーションしないでいることはできない14、もしコミュニケーションを避けようとするなら、そこに居合わせないことを選択しなければならない15。
*「とおして」? 「慣習に基づいた許可」??? ──原文確認のこと。
うーん。
これで筋が通ると思ったが、だめみたい。
「再帰的に知覚可能な意味」と「主題」の違いが議論のどこに効いてくるのかわからないなぁ。それも勘案して考え直すこと。
出直し。