納涼トッシキ祭り:ニクラス・ルーマン「単純な社会システム」

再度再訪。


2節「知覚と言語的コミュニケーション」をもういちど。
この節は7段落からなる。まず、段落毎に一行要約しておくと:

  • 【1】対面的相互行為の「原理」は「居合わせること co-presence / Anwesen」である。 ひとびとが「居合わせる」と──もうそれだけですでに──コミュニケーションは始まっている。(unfocused interaction)
      • 【2】ここで生じているのは「再帰的なreflexiv 知覚」である。
        知覚は処理速度が大きいという利点をもつが、「再帰的な知覚」では、この利点は失われてしまう。
  • 【3】「発話」がなされると、相互作用は「焦点のあった=主題をもった」コミュニケーションとなる。(focused interaction)
    再帰的知覚/言語的コミュニケーション〉の違いについてのまとめ。
  • 【4】以下「focused interaction」について。焦点=主題を持つことによってどんなことが可能になっているか、またそれにはどんな限界があるか。
    主題によって、相互行為を構成している多様な知覚過程に対して、再び選択的に関係することができるようになる(など。以下略)。
      • 【5】続き。さらに、主題化によって、「過程的自己準拠」──ガーフィンケル&サックスの謂う「定式化」──によるコミュニケーションのコントロールが可能になる。
      • 【6】「定式化」ネタ続き。「定式化」されうるのは、様々なプロセスのうちのほんの一部分でしかない。
      • 【7】まとめ: focused interaction も〈再帰的知覚/発話〉双方に・同時に関係している(つまり、その基本過程は「二元的」である)。

この論文(のここ)だけを読むと、「focused」ということと「言語を用いる」ということとが非常にベタに重ねあわせられているように読めるが、もうちょっとユルく受け取っておいてよいようにも思う。

この点については、あとで『要綱』10章を検討するさいに、再度検討してみよう。

テクニカルタームとしての「主題」は、

    • コミュニケーションは、何かについてのコミュニケーションである*

という際の、その「何か」のことを指している。そして、この論文では「focused」という際の、その「焦点の先」のことが「主題」と謂われている。

だから、細かいことをいえば、「主題化されていること」と「言語化されていること」は、同義ではない。言語を用いずには、焦点をあわせること・特定化することは──したがってコミュニケーションをコントロールすることも──激しく難しい(ほとんどできない)というだけの話。そしてまた、この論文では【7】で再度確認されているように、いずれにせよ「focused interaction」においても、コミュニケーションは「主題のみで」進んでいくわけではない。(当然だが。)
しかもそれがサッカーボールを用いて行われる「焦点のあったコミュニケーション」──つまりサッカー──であれば、言語(化)(ほとんど・たまにしか・補助的にしか)必要ない!
ちなみに『要綱』 4章5節 で「コミュニケーション過程の〈知覚のコンテクスト〉からの分出」を論じたあたりも参照のこと。
* 当然のことながらこれは、「意識とは、何かについての意識である」というフッ君テーゼの──システム・リファレンスを移し替えた上での──パロディであり、たとえばこの論文で登場する「主題の選択性」とは「主題地平」のこと。


ところで『要綱』中の「再帰性」ネタを追っかけていたら、72年論文の3節に登場する謎のターム Gelten と Genese を発見してしまった。

なんのことはない。これ、「構造と過程」のことだったらしい。これについては3節を検討する時に立ち返ることにする。