市野川「人間科学におけるフロイトの意義」

イッチー既公刊論文を俺が(ほぼ)公表順に読むスレ。ちっとも進まねぇ!

  • はじめに
  • 「変質」疑念の系譜
  • 「変質」概念と進化論
  • 「性的倒錯」と「変質」
  • フロイト
  • 結語

■メモ

  • 今日の日本語においても「変質(者)」という言葉が「気質・性格に以上のあること(者)」(『広辞苑』第四版)という意味を持ち続けている由来もモレルに求められる。[p.220]

へー!


フロイトがなかなか出てこねぇ!


他に昨年の日射報告要旨二本

  • 寺田征也「ミードにおける思考と自己」
  • 小宮友根「パフォーマティヴィティ概念の社会学的意義」


■参照文献
[あとで読む] かも。

G.H.ミードの社会理論―再帰的な市民実践に向けて

G.H.ミードの社会理論―再帰的な市民実践に向けて

中断された正義―「ポスト社会主義的」条件をめぐる批判的省察

中断された正義―「ポスト社会主義的」条件をめぐる批判的省察

心の科学は可能か (認知科学選書)

心の科学は可能か (認知科学選書)

 J.ヴィガレロは、主としてフランスにおける強姦罪の歴史をたどりながら、旧体制下での「女性の所有者に対する犯罪」としてのレイプ という概念が、市民革命を経て近代法が成立しても いかに変わらなかったかを記述している(Vigarello 1998=1999)。レイプの「悪さ」は、被害者の女性が誰のものか(結婚しているか否か)、あるいはどのような女性であるか(性経験の多寡)といったことと密接に結びついていたのである。だから、1970年代に米国の各法域で強姦法が改正され、被害者の非同意によってではなく加害者の暴力によってレイプを定義しようという試みが始まったとき、それはレイプという言葉の意味を変える試みであったと言うことができる。すなわち、その言葉がどのように用いられるべきかについての変更を、フェミニズムの議論は迫ったのである。それは、被害者が結婚しているかどうかや、被害者の性経験と結びついて理解される概念であってはならない。むしろそれは「個人」という概念と結びつくべきであり、過去の性経験が詮索されることで「被害者が裁判にかけられる」のではなく、被害者女性の一個人としての権利が侵害されたことこそが裁かれなければならない、というように。
 同様に、婚姻免責が問題とされ、夫婦間にもレイプがあるといわれるときにも、レイプという言葉の意味が争われている と言うことができる。[...] (上掲 小宮配布資料 p.9)
強姦の歴史

強姦の歴史

「レイプの「悪さ」は、被害者の女性が誰のものか(結婚しているか否か)、あるいはどのような女性であるか(性経験の多寡)といったことと密接に結びついていた」ってのは、いまでもあんまり変わってなかったりするよね。

そこで 行為の(記述と)再記述 ですよ。