山下和也先生のエントリ「オートポイエーシスの自己言及」 を巡る DQNアトラクター噺の続き。その2。
目次
前エントリ:http://d.hatena.ne.jp/contractio/20071002
- 端緒 2007年10月02日 10:04
- 質問1 2007年10月02日 22:46
- 回答1 2007年10月03日 11:31
- 質問2 2007年10月04日 20:23 / 質問2 2007年10月04日 20:23 / 質問2-2 2007年10月04日 20:35
- 回答2 2007年10月05日 22:04 / 回答2-2 2007年10月05日 22:40
ここ↓から当エントリ:
質問3-1
酒井の回答:
レスポンスありがとうございました。
この、質問3 のシリーズでは 回答2 および 回答2-2 にコメントします
これまでにわかったことは、さしあたり、言葉の使い方について、までかと思います。すなわち:
- 山下先生(〜河本先生)は、「自己言及」という語を、
「それ以前に決まっていた自己をスタート地点として、それに逆戻りする」ような事態にのみ使用する*。というところまで。
* 回答2 にて山下先生の曰く:「自己言及と言う以上、何らかの既存の自己からで出て、同じ自己へ還る再帰的な働きが必要です。ところが、構成素の産出基礎づけも、操作的閉鎖も、スタート地点へ逆戻りするような形にはなっていません。操作的閉鎖は一見そう見えますが、回帰した点はそれ以前に決まっていた自己ではありませんから。」、と。ともかくも、以下では 「自己言及」という語のこうした↑使い方を [自己言及K] と表記することにしましょう。
他方、山下先生(〜河本先生)の主張のほうは こんな↓具合にまとめられるかと思います:
- 【P】 [pr][cl] には [自己言及K] と呼べる事態はいささかも含まれていない。それを「自己言及」と表現するルーマンは間違っている。
...いやぁ、道のりは遠いですねぇ。私がいま残念に思っているのは、山下先生の主張がこのような↑ものであると 私が理解しているということを 質問2 でもって山下先生にうまく伝えることができなかった、ということです。もう少し文章修行が必要なのかもしれません。ま、それはさておき。
この主張↑をいうためには──当たり前のことをいうようで恐縮ですが──、少なくとも次のことが す べ て 満たされていないといけません:逆にいうと、次のどれかが正しい場合、主張【P】はあっさりと「誤りだ」ということになってしまいます:
- [-a] [pr][cl] は、ルーマンのいう社会システムとは別のものだった。
- [-b] 「自己言及」という語を、両者が異なる仕方で使っていた。
- [-c] 「自己言及」という語で指していたものが違っていた。
‥‥と書いてみて、ふたたび「やぁこれはたいへんだなぁ」と思わず腕組みしてしまいましたが、しかし挙証責任はこちらのほうにはないのでした。あぁよかった。
がんばってください♪ >山下先生こんなにも挙証負担の大きな・大胆な主張ができる山下先生や河本先生が激しく眩しく感じられてしまう私なのではありますが、それはさておきともかくも 次のターンでは 少しでも議論を先に進めたいところです。私もちょっとはお手伝いできるとよいのですが。
[c] 山下(〜河本)と ルーマンは 「自己言及」という語を 同じ事柄に対して使っているか?
さて。
先便で私が引き合いに出したのは、[a]-[c] のうちで もっとも難易度の低い、[c] でした。これは、すでにご紹介した『要綱』isbn:4769908083 の11章を──そこでの議論がまるで理解できなくても、とにもかくにも──ほとんど テクストの字面だけ見ただけで わかることです。というくらいに簡単にコストをかけずにいえることなので、私はまずこのこと(だけ)↓を指摘した、というわけだったのでした。つまり、
- 山下先生が云々しているのは「システムの自己言及」だけど、ルーマンが述べているのは「システム要素の自己言及」だよ。
そもそも指示している事柄が違うのだから、主張【P】は成り立ちようがないよ。ということでした。
で、山下先生のお返事のうち、この部分↓は 私の反論に直接答えているように(一瞬だけ)見えます:
問題はシステムの自己言及かどうかではないんですよ。自己言及の構図にはまっているかどうか、なんです。
お? このあと議論はどう続くのかな! ──と一瞬わくわくしかけたのですが、でも山下先生は、そう述べたあとですぐにこの議論を自分でキャンセルしちゃうんですよね。
河本先生の言うように、システム実現後の自己言及に限るべきではないでしょうか?
あらがっかり。
これは、「[自己言及K] という語はシステムにしか使えない」という──言葉の使い方に関する──主張を繰り返しているだけですね。私の主張は、前提 [c] は成り立たないよ*、というものだったのですから、これでは答えになっていませんですなぁ。*「自己言及」という語を、[自己言及K] として用いるならば、それは「すでに自己を持ってしまっているもの」にしか使えないという主張は、ということに気づいてください。
- ルーマンの主張の妥当性にはまったくなにも関係がなく、しかも、
- 山下先生の主張をではなくて、むしろ私の方の主張を強化している*
* それは、「山下先生(〜河本先生)が──なにしろ言葉に対する先入見のゆえに──ルーマンのテクストをまともに検討することができなかった」ということの方を示唆してしまっているでしょう。質問3-2 を参照のこと。[c] についてはさしあたり以上の(再)指摘にとどめて、次に進みましょう。
[c] に比べると [a][b] を示すのは 要求の多いめんどくさい仕事です。とりあえず、議論を先に進めるための出発点となるように、[b] については簡単なメモを、[a] については簡単な3つのリクエストを提出してみます。これにコメントをいただくことで、議論を先に進められればいいな、‥‥と期待します。
質問3-2: [b] 山下(〜河本)と ルーマンは 「自己言及」という語を同じ仕方で使っているか?
酒井の回答つづき。2/3。
テクストにあたってルーマンの語用を示すことは、ちょっとめんどくさい仕事です。とはいえ、私がいまやればよい最低限の仕事は、
- ルーマンは、
「それ以前に決まっていた自己をスタート地点として、それに逆戻りする」ような事態のみを指して「自己言及」という語を使っているわけではないということを示すことまでです。これだけで──やはり──主張【P】は崩れてしまうからです。で、それなら比較的簡単です。
まず消極的な道。
前のエントリで書いた、
「自己言及」という語を、[自己言及K] として用いるならば、それは「自己を持つもの=システム」にしか使えないという主張は、山下先生の主張をではなくて、むしろ私の方の主張を強化しているというのを敷衍してみましょう。たとえばルーマンのこんな発言:
自己言及という概念は、或る要素、或る過程、或るシステムが、それ自体として 統一体Einheit であることを述べている。(1984: 58 = 1993: 50 isbn:4769907427)
ちなみにここに登場する「要素」「過程」「システム」は、この順番でそれぞれ、前のエントリで紹介した「基底的」「過程的」「反省的」という奴に 対応している──ので、これらの術語がこの順番で登場している──というわけです。というわけで。なにしろルーマンは、「要素」にも「過程」にも「システム」にも、自己言及という語を使っちゃうわけです(こちらの用法を、[自己言及L] と表記することにしましょう)。
もちろん、その用語法の妥当性は、一方では 事柄に即して──いまの場合は、われわれが日々営んでいる社会的実践に即して──、他方では この語の歴史や通常の用法などに鑑みて、検討されるべきです。それは当然のことです。
しかしまたその作業は、[自己言及L] でどんなことが述べられているのか、ということの 検討の中でしか できるはずがありません。そして、山下先生(〜河本先生)がしているように、テクストの論脈にかかわりなく語義──[自己言及K]──を外装してしまうなら、当の必要な作業が 端緒において遮断されてしまいます。なので、[自己言及K] と [自己言及L] が同じ用法であるはずはない。だから、【P】は主張できないのです。
ついでに、もうちょっと積極的に定義的なことを述べている箇所も挙げておきましょう。これは 長岡本isbn:4326601957 の p.157-158 からの引用ですが、こちらの解釈は難しいです。
自己言及もまた、厳密な意味において言及である。すなわち、ある区別にしたがった指し示しである。この概念領域の特殊性は、言及という 操作operation がそれによって指し示されるもののなかに含まれているということにある。自己言及の操作は、それ自身が属している或るものを指し示す。強調しておきたいが、トートロジーが問題になっているのではない。言及という操作は、たとえば操作としての自己自身を指し示すのではない。言及の操作は、つねにある区別に導かれて、それが自分と同じものとして扱う或るものを指し示す。この同一視、そしてこのことによる自己言及の自己への配属は、その自己そのものがいかなる区別によって規定されるのかということに従って、いろいろな形式をとりうる。(1984, S.600 isbn:3518282662)
ルーマンらしいというかなんというか、相当にアレな文章ではあるのですが、少なくともここで述べられているのが、 [自己言及K] のような 単純な(?)事態 ではない ことまではわかるでしょう。
ルーマンの使う「自己言及」概念の外延を明確に提示することは私には難しくてできませんが、それでも、その言葉がたんに [自己言及K] のように使われているのではないことになっている事情の理由を示唆することまでなら簡単にできます。つまり、なぜそうなるかというと、そこで問われているのが、
- 社会秩序の要素的単位は、どのようにして それとして 組み立てられるか
ということだから、です。 簡単ですね♪
システムは自己の作動を、やはり自己に属する別の作動への回顧と先取りを通じて産出する。そしてこのやり方によってのみ、何がシステムに属し何が環境に属するのかを規定しうるのである。(Luhmann 1993: 44 = 2003: 41-42 isbn:458800767X
ちなみにこの引用は、〈要素/関係〉という差異のもとで〈要素〉が産出されるというテーゼの言い換えになっています。すなわち:ということ。
- 〈システム要素〉が〈(当のシステムの-先行/後続する-別の要素 への)関係〉のもとで、産出される
他方、ここに「システム」が登場してしまうことが、〈[pr]/[cl]〉の区別を主張する山下先生(〜河本先生)との争点になっているところ。そちらについては 次の質問3-3 にて。そもそも
「すでにあるものを頼りにしつつ・引き続く事柄を見込みながら──その限定のもとで・限定を開示しながら──、なにか新しいものが それとして 登場する」という話をしようとしているわけですから、そのラベルに使われる言葉が「それ以前に決まっていた自己をスタート地点として、それに逆戻りする」ような事態のみを指すように使われているはずがないわけです。そして、ここでいわれている「自己言及」における「自己」とは、上で「それとして」と述べた、その それ のことなのです*。
なので、 [自己言及K] と [自己言及L] が異なる仕方で使われている以上、この点からしても【P】を主張することはできません。[b] についてはさしあたり以上の指摘までにしておきます。
* いかん。ハイデゲリアンな文体になってしまった。■追記
私がなんとも不思議に思うのは、ルーマンのこうした議論を──哲学を専門とされている──山下先生(〜河本先生)が目にしたときに、どうしてそこで、たとえば「受動的綜合」という言葉を想い出すことが決してないのか、ということです。(フッサールはそこで「自己構成的」な統一といった表現だってつかっていたと思うのですが...)それ──フッサールによって「流れ」とも呼ばれるもの──は「先-自我」的な統一だとも言われていました(isbn:4772004475)。「先-自我的なものを、自我論的に扱うわけにはいかない」という事情は、当然ながら──フッサールの議論をお手本にしてつくられている──ルーマンの「基底的|(過程的〜)反省的」という区別にも──適切な抽象を施すならば──当てはまります。
つまり、「反省的」な状況を範例にして「基底的」統一を扱うわけにはいかない──そしてまたそもそも、「システム」は「自我」に類比的な何かではない──という風に。
質問3-2: [a] ルーマンのいう「社会システム」は、山下(〜河本)の [pr]+[cl] で再記述できるか?
酒井の回答 3/3。最後。
せっかく「無視」の例を出していただいていたので、ほんとはそれにもコメントしないといけませんが、それはまた日を改めてレスさせていただきます。
あと、ルーマンの「3つの自己言及」の話は「混乱している」という指摘がありました。これについて私の側で もうちょっと議論を紹介してみてもよいのですが、しかしどこがどう「混乱している」と考えておられるのか せめてもう少し敷衍していただかないとディスカッションは難しいかもしれません。いやぁ。がんがん自分で挙証負担を増していく山下先生、カッコいいですなぁ。
さて。[a] は難しいです。ルーマンと河本のテクスト双方に相当足を突っ込まないと検討できませんから。でも山下先生(〜河本先生)が、【P】を主張するにはどうしても必要な作業です。しかも──これが困ったことですが──、その必要な作業を、山下先生も河本先生も、(私が読んだ限りの)出版物の中ではやっておられないのではないですか?*
,o/ ∠先生!これでは検討できませ〜ん! lミiニ!* ひょっとしたら私の読んでいないテクストでやっておられるのかもしれませんし、あるいは読んだのに読み飛ばしてしまっただけなのかもしれません。「やってるよ」という場合は、その箇所をご教示いただければと思います。そんなわけで、なにしろ挙証責任は山下先生(〜河本先生)側にあるわけなので、私としては、山下先生の敷衍に待ちたいところではあります。
私が河本先生のテクストに触れていたのは 10年以上も前の話ですし、議論をちゃんと覚えている自信はまるでありませんし。が。それはそれとして。ともかくも、いただいたコメントを踏まえて、議論の明確化に資するようなリクエストをしてみることはできます。
目下のさしあたっての問題は、
- [pr] と [cl] は、それぞれ、具体的には どんなことを指しており、それらはどう違うか。
でした。また、山下先生のご教示によれば、この議論においては〈産出されるもの/産出するプロセス〉の区別が重要であるとのことですから、これに応じてリクエストは三つ用意できます。
- 【R1】 [pr] に相当する社会的なものの例を挙げてください。
- 【R2】 [cl] に相当する社会的なものの例を挙げてください。
- 【R3】 社会的なものにおける〈産出されるもの/産出するプロセス〉の例を挙げてください。
このリクエストに答えていただくと、
- [pr][cl] と ルーマンの謂う「社会システム」とは、同じ事柄に照準した競合する概念なのかどうか(=[a])
ということについて、議論を踏み出すことができるに違いありません。
逆にいうと──しつこく重ねて言うと──、そうした作業もなしに、【P】を主張することができるはずはありませんよね?【追記】 2007/10/16 07:30
もうちょっと敷衍しておきますと。
いま、社会秩序(=社会システム)の要素的単位を、この語用は山下先生も踏襲されておられるようなので、ルーマンにならって「コミュニケーション」と呼んでおきましょう。すると──山下先生いわく、構成素はシステムの要素ではない、ということですから──
- 社会秩序における「構成素」はコミュニケーションではない。
が導かれるように思われます。(──という理解でだいじょぶでしょうか?)
とすると、では、
- [pr'] 社会秩序における「構成素」とはなんでしょうか?
という疑問が生じます。まず これが [pr] に相当します。
そしてまた、システムの成立は産出プロセスの閉鎖によるとのことですから、
- [cl'] 「閉鎖」に相当する社会的な操作とはどういうものでしょうか?
という疑問が生じます。これが [cl] に相当します。
そしておそらくは──山下さんの言葉遣いから考えるに──、「閉鎖」という操作もコミュニケーションではないのでしょう。(──という理解でだいじょぶでしょうか?)ちなみに、[pr'] と [cl'] が答えられれば、おのずと【R3】も判明になるでしょうから、【R3】は冗長ではあります。そんなわけで、ルーマンが「コミュニケーションの成立によるシステムの成立」で済ませているところで、山下先生(〜河本先生)の場合には、さらに二つの概念装置──「構成素」と「閉鎖」──が追加されている、というわけです。いったいそれは、どういうものだろうか、というのがここ(=議論の出発点)における問いです。
ちなみに、すでに回答2-2 において「コード」について触れていただいています。ということはおそらく、「コード」(なるもの)と「閉鎖」の関係 を教えていただければ、[cl'] に答えていただいたことになるのではないかと思います。
酒井4-1 2007/10/16 07:32
山下先生は「問題の切り分け」という作業にはなじみが無いようでございますな。それなりのコストをかけてみた私としては 丸無視されて (´・ω・`) しょんぼり というところではありますが、まぁ愚痴いってても仕方ないのでお返事をば。
山下先生は再度自説を繰り返されたので、それにお付き合いして私のほうでも再び、すでに書いたことを繰り返し書かせていただきますよ:
- [01]
「あるものが別のものに関係することを自己言及とは呼びませんよね?」→そりゃそうですw。
- [02]
「システムが成立していないなら、産出物は別の産出物の産出プロセスを基礎づけているだけ」→あからさまな論点先取、本当にありがとうございます。これは争点になっていることなので──しかも、そちらの側に挙証責任のある事柄なので──、それをここで前提にされては困ります。
それがいえるかどうかは、 「質問3-2」をめぐる議論如何にかかっていることをお忘れなく。
- [03]
「問題なのは、ルーマンがこの言葉をどう使っているか、ではなくて、それが一般に自己言及と呼ばれる事態であるかどうか、なんですよ。」→私が指摘したことのうちのひとつは、山下先生が
- それが一般に自己言及と呼ばれる事態であるかどうか
とか気軽にいってくれちゃうときに「それ」として指しているものが、議論の出発点においてすでに ルーマンの指しているものとズレていますよ。だから批判が批判として成立していませんよ。そうである以上、「ルーマンは間違っている」などと言えるための権利を山下先生は持っていませんよ、ということだったのでした。
><
念のため、一番最初に述べたことをもう一度述べておきますが。私自身は、ルーマンの「自己言及」という語用を擁護しようなんてぜんぜん思っていませんし、ましてやそれに追従しようとなんて思っていません。
実際、先日公刊した論文でも、「自己言及」という語は──引用以外では──まったく使っていません。私の指摘は、「それでもいえること」であるつもりで書いていることであることを踏まえたうえで──そしてそれを忘れずに──読んでいただければありがたいです。
以上です。
山下3-2 2007/10/19 23:50
山下先生からのコメント欄へのお返事。改行と数字を入れさせていただきました。
いま、社会秩序(=社会システム)の要素的単位を、
この語用は山下先生も踏襲されておられるようなので、ルーマンにならって「コミュニケーション」と呼んでおきましょう。すると──山下先生いわく、構成素はシステムの要素ではない、ということですから──
- 社会秩序における「構成素」はコミュニケーションではない。
が導かれるように思われます。(──という理解でだいじょぶでしょうか?)
酒井 質問3-2 【追記】
- [01] これが大いにまずいんですよ。
- [02] 構成素はシステムに属していません。
- [03] システムは構成素を産出する働きの方です。
- [04] しかも、この産出プロセスのネットワーク状連鎖が閉じること、つまり操作的閉鎖が成立して初めて、関連する産出物のうち何が構成素であるかが決まります。
- [05] ついでに言うと、この閉鎖けして空間的なものではありません。
- [06] ルーマンの社会システムにもちゃんと閉鎖はあります。
- [07] いわば、コードによる閉鎖で、同一のコードに従うコミュニケーションだけで連鎖が完結していることです。
- [07a] 日本語の会話の中では、英語の発言はただのノイズになります。これが明示されないのは通常のコミュニケーションなら、常に成り立っているからですね。
- [07b] しかし、互いに言葉のわからない外国人同士の掛け合いを考えてみてください。発言のやり取りは続きますが、社会システムはまったく成立していません。それでも、前の発言が後の発言のきっかけですから、産出基礎づけ関係は成り立っています。
- [08] 要するに、ルーマンはほとんどの場合、システムの成立を前提に語っていて、社会システムの場合、それでほとんど問題ないわけですが、オートポイエーシス論としてはそれでは不十分だということです。
だ め だ こ り ゃ 。