買っちゃった&読んじゃったorz。
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巻末に「ミスリーディング一覧*表」という付録がついていて吹いた。 どういう意味なんだよそれwww? 編集者なにしてたんだwwww
* 「ミスリーディングな表現一覧」とかじゃないとおかしくね?
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んーと。まぁ書いても仕方がないことを愚痴として書いておくだけだけどさ。
これまでの著作もそうだったように、山下先生は啓蒙書を書くのが得意なようで、この本も 文体は変だけど よくまとまっていてわかりやすく、読みやすい。すくなくともその限りでは、良書だと思う。それだけに、今後またこの本を典拠にした安直なルーマン批判があちこちで聞こえ始めるかもしれない、と思うと新年早々やや憂鬱だ。
著者が自らの議論の利点だとしている点は 〈産出物(=構成素)/産出プロセス〉 の区別にもとづく発生論的構成であり、これがルーマン批判の根拠にもなっている。
- [pr] 産出物とその産出プロセスが存在する。(これだけではまだ「そこにシステムがある」わけではない。)
- [cl] 産出プロセスが特定の状態に入り込んだとき、そこにシステムが登場する。
しかし、著者が利点だと考えているだろうまさにこの議論構成が、著者の議論の欠点なのだと私は思う。
ところが これに反論するのは、実はなかなかに難しい。(なにしろ著者はそれをこそ利点だと考えているわけだろうから、著者を説得するのはほとんど無理だろうが、まぁそれはさておくとしても。)
ここで とりあげるべきトピックは少なくとも二つあるのだが:
- [1] (ケミカルな水準であればいざしらず、「社会的なもの」の領域において) 〈産出物/産出プロセス〉などという区別が成立しうるのか*。
- [2] 社会システムに属さない(=社会システムを構成してしまわない)「裸の行為(or コミュニケーション)」なるものが存在しるうのか。
ここで特に、[2] は、「存在しうる」というのが、たいていの人のもっている直観であろうから、これが著者の議論と共振して多くの読者に「納得感」を与えるだろう。(むしろ、著者はその直感を資源として議論を組み立てている、といったほうが正確だろうが。)
たとえば、化学反応における「産出物」と「産出プロセス」の区別は──「化学反応式」のようなものをイメージしてよいのなら──、自明である。しかし「コミュニケーション」についていえば、この区別が何を意味するのかはまったく自明ではない。私にはいまのところ「イメージ」を描く事すら不可能である。
そして、発生論的議論が魅力的なものに映るのは、ほとんど我々の「心の習慣」とでも呼びたくなるような傾向性であって、それが提供されると「何かが説明された」という納得感が得られやすい、ということがある。
というわけで、「俗耳に入りやすい」という言葉どおりの共振が、広く浅く読書人の間に引き起こされる、ということは少なからずありそうなことである。
いずれにしても、著者は上に挙げた三点
- [0] 発生論的議論構成(の採用あるいは拒絶)の含意
- [1] 発生論的議論構成を支えている区別の経験的な妥当性
- [2] 著者の採用するコミュニケーション概念の経験的な妥当性
を検討しておらず、そ う で あ る か ら こ そ ルーマンの批判ができている。・・・というくらいのことは いつかどこかにまとめて記しておいたほうがよいのかもしれない。
まぁ、第二刷が出たりしたら考えるか。
なんだか切なくなってきたので、あとはもう「ちゃんとした」本を粛々と読み進めることにしようと思います。