岡田「カール・マルクスのシステム論」

※追記: ほぼ一年後に、このエントリをめぐって岡田せんせいと やり取りがありました(白目)




なにもする気が出ないので拾った論文を読む昼下がり。

岡田 直樹(2007)
カール・マルクスのシステム論
『社会・経済システム』 (28) (社会・経済システム学会)
http://ci.nii.ac.jp/naid/110006967745
  1. マルクスとシステム論
  2. マルクスにおける「関係」概念
  3. マルクスの再生産理論
  4. オートポイエーシスマルクス
  5. マルクス - オートポイエーシス論の可能性

マルクスは自分の革新的な洞察を明確な形で提示するための具体的な概念装置を欠いていた」アルチュセール:大意)。そこで、「システム論を媒介として、マルクスが明確には言語化できなかったヴィジョンを明確化」[p.130] してみましょう。という論文。

著者の基本主張は、

  • マルクスの社会理論(という未完のプロジェクト)は、「人間を構成素とするオートポイエティック・システム論」として構想しなおすことができる。
    • これは、構成素をコミュニケーションだとしているルーマンの構想とは一線を画す。

というもの(大意。p.138ほか)

人間の(再)生産?

だとすると、では、その 人間という構成素の再生産 とはどういうことなのか、ということが、まず真っ先に問われることになりましょう。
で、著者の見解は このあたり。・・・のようなんだけど....

[...] マルクスにとって社会とは、[...] たえず構成員を再生産する生産関係自身の、たえざる再生産のプロセスのことである。『経済学批判要綱』において、マルクスは次のように明確に述べている。

  • 共同団体の目的、個人の目的は──生産の条件と同様に──これらの一定の生産諸条件の再生産であり、
  • また個々別々の個人だけでなく、社会的な分離と関連とにおける個人の──これら諸条件の生きた担い手としての──再生産である。(ibid.*:478)

 したがって、ある生産諸条件のもとで、個々人は単に生理的にだけではなく、社会の成員として再生産されるわけであるが、そのような個人こそが まさにこの生産諸条件再生産するのである。 [p.133-134]

* マルクス『経済学批判序説』

異なることを同じ言葉で呼んでいることはわかりました。はい。

 ともあれ、ここで重要なことは、資本を人間から自立した何かとして表象しないことである。むしろ資本は、単なる価値形態の転換でもなく、物質代謝の転換と、その担い手たる人間をも含めた、循環する生産過程なのである。マルクスが、資本の中に生産物しかみない経済学者を批判しつつ言うには、「資本家と賃労働者の生産は、資本の価値増殖過程の主要生産物である」(ibid.:448)。とはいえ、資本が人間を生産するということが正しいとしても、また人間が資本を生産するということも正しい。人間とは、自己再生産する資本というシステムの構成素である、と言っても間違いではない。[p.134]

生産生産とが、ここで、ひとつの言葉(=「生産過程」)に纏め上げられておりますね。

彼[マルクス]は『序説』で次のように述べている。

  • 個人は一つの対象を生産し、それを消費することによってふたたび自己に復帰*するが、
  • しかしそれは、生産的個人としての、自己自身を再生産する個人としての自己に復帰するのである。(op.cit.:16)

 別の仕方で言えば、マルクスにおける個人概念は、決して近代的な抽象的な主体概念ではなく、たえまなく運動することによって自らを更新しつづけるものという、決定的に新しい意味合いを帯びているのである。[p.165]

* こういうのを「復帰」と呼ぶなんてことは、「人間」(と労働)に関するヘーゲル的なヴィジョン抜きに可能なんですかねぇ....

[...] 資本の構成素の一つである労働者は、労働を通じて資本の(拡大)再生産過程を物理的・価値的に実現することを通じて、ぎりぎりの賃金をもらい、そして自らの身体と生活を(単純)再生産している。さらにいえば、資本の存立条件の一つには、生産手段をもたない「自由」な労働者の存在が必要条件である[...]。労働者は余剰労働が搾取されることを通じて、みずからの貧窮状態を再生産し、したがって資本の存立条件をも再生産している。[p.197]


えーと.....。
こういわれると、しかし、そこで再び、

  • それで、ここでいう「人間の(再)生産」というのはどういうことなんですか? 
    • 「人間の(再)生産」と呼ばれるものにおいては、実際のところ、いったい 何が (再)生産されているのですか?
    • ここでは いったい 何が 「人間」と呼ばれているのですか?

などなどと、尋ねたくはなるよね。


まぁ、「(再)生産」概念が乱暴に使われている限り、この手の議論には望みはなさそうに思われますなぁ。

システム?

もう一つの疑問。著者がなぜ「構造」概念だけではなく、それに加えて「システム」概念を必要とするのか。それがわからない。
著者が「システム」という名前で呼ぼうとしているものは、こういうものなんだけど──:

  • マルクスは、生産と消費との複雑な関係について、[それぞれ 観念論的・実在論的・唯物論的 と 評してよいであろう]三つの論点に分けて論じている。[...] [p.131]
    • [...] 第三に、生産と消費は「自らを成し遂げることによって、他のものを作り出し、自らを他のものとして作り出す」(ibid.:15)。すなわち消費は生産物を分解し消尽することによって、生産行為をはじめてなしとげる。そのことによって──すなわち消費者へと内化される事によって──、生産物は生産物に、生産者は生産者になる。また生産は、消費の対象を生産するばかりではなく、消費の一定の様式を生産し、かつ消費への欲望をも生産する。[...] [p.131-132]
    • [...] 第三の契機では、生産-消費 関係は、内的な連続的過程として捉えられる。生産物とは、「物と化した活動」ではなく、主体が消費する対象として「生産物」だからである。そして、消費とは、生産物という物的形態を分解することであり、そのようにして生産行為は完成するのである(...)。[p.132]
    • [...] 第三の論点では、生産者-生産物-消費者 は、自らを消尽・抹消しつつ、他の形態へと絶えず移り行く過程である。より抽象的にいうならば、生産-消費とは、自然から人へ、人から人へと、時には物的形態を媒介として たえず変態してゆく エネルギーフロー* なのである。ここでは、もはや生産者も消費者も生産物も、それ自体としては存在しえず、したがっていかなる「実体」も、存在する余地がない。マルクスは『経済学批判要綱』において、この自らを抹消しつつ他を創り出す生産過程の運動性を、「消過的」verschwindend と名づけている。おそらくは、これがマルクスが──実在論ではなく──唯物論と名づけた地平である。[p.132]

[...]

  • ここではもはや諸個人は抽象的な実体ではなく、個人から個人へ、自然から個人へ流れ行く幾重もの エネルギーフロー、生産関係の一結節点 [...] である。私は芸術によって感受性を満たされ、食物によって自らの身体を再生産する。その一つ一つのフローが、他人による私の 生産 である。私はまた、労働によって、日々の家事において、他者の生へと自らの生命を注ぎ込む・・・というように。
* なぜチャンポン?

 『序説』や『要綱』におけるマルクスの社会理論は、以上に見たようなラディカルかつ包括的な生産概念をベースに構築される。というのは、広い意味での生産過程には、流通・交換までが、一つの生産的活動として、契機として含まれるからである。

われわれが到達した結果は、生産、分配、交換、消費が同一であるということではなくて、それらがすべて 一個の総体 の肢節を、一つの統一 の内部での区別をなしているということである。[...](ibid.:21)

 ここに提示されているのは、文字通りの意味において、システム論的な世界であるといってよい。そしてマルクスの社会理論の企図とは、こうした 有機的全体 としての社会システムを総体として理解すること、である。[p.133]


さて。
「システム」は多様な使われ方をする言葉だから、肢節をもった一個の総体 だの 内部に区別をもった一つの統一 だの 有機的全体 だの といったものを「システム」と呼んではいかんとまで主張するつもりは私にもない。

「システム手帳」や「システム・キッチン」というのはそういうもんでしょうし。
 それにしても、こうした対象は、そのままベタに──廣松の言葉を借りれば──「構造成体」とか呼べば済む意味内容しか持っていないわけだから、──「構造」概念だけではなく・それに加えて──どうしても「システム」概念を必要とする理由は無いように思われるのである。レヴィ=ストロースのように、そしてアルチュセールのように、「構造」という言葉を、そしてそれだけを用いればよいのではないだろうか。


 著者とは逆の方向から、著者の術語法とルーマンのそれとを比較してみれば、この点はさらにはっきりするだろう。

著者とルーマンのそれぞれが「システム」と呼ぼうとしているものについて、その 一つだけ を取り上げて術語法を比較するなら、違いはあまりはっきりしない。社会システムは(システム)要素からなり、それは(システム)構造をもつ。そしてそれだけである。しかし、

ルーマンが「社会システム」概念を どうしても 必要とするのは、世の中に、(ルーマンの用語法でもって)社会システムと呼びうるものが ものすごくウルトラに たくさんあるから、である。社会システムがたくさんあり、それぞれの社会システムには外部があり、そこには他の社会システムたちがいる。ならば当然それら一つ一つを区別できなければならない。・・・このような議論構成を持つからこそ、ルーマンにはどうしても「構造」概念だけではなく・あわせて(別に「システム」でなくてもかまわないのだが、ともかくも)もう一つ別の概念が──「構造」概念と「システム」概念とを区別したうえで、それらを関係づけて用いることが──必要なのである。

 「実空間」*から特定の領域を切り出してみると、そこではかならず 複数の社会システムたちが、折り重なって・一緒に 存在している(※ただし大気圏内に限る)。「因果関係」や「エネルギーの流れ」という観点からいえば、それらは相互に影響を与え合っている。けれども、意味──レリヴァンス──の観点からいえば、それらはそれぞれ自律した秩序を形作っている。だから、学知的観察者の記述装置(ex 因果性、エナジー・フロー)-と-複数の社会秩序それぞれの局所的な統一性が それぞれに作り上げられている そのあり方 とを 丁寧に選り分けながら、扱おうとしている対象・現象についての記述を組織していくことが、「社会システム研究」の課題となるわけだ。
* ここではこの言葉を「学知的観察者の記述領域」という意味で使っている。

著者は(おそらく)、この「システムが無数に存在する」というルーマンのヴィジョンに賛成しないのだろう。それはそれでよいとして、しかしそれならば──ここで上記の疑問に戻るわけだが──、なにゆえ「システム」概念が必要なのだろうか、という疑問は 生じるわけである。別に、オッカムの剃刀をガシガシ研ぐような趣味は当方も持ち合わせていないが、しかし、この概念の採用に積極的な理由=根拠があるのかどうかは、著者の主張全体にとっても重要なことであるはずだと思う。



ついでのコメント

著者は、ルーマンが「人間概念を放棄」し、「人間とは無関係な社会」を論じているかのように主張しているけれども、これは正しくない。
とはいっても、それは、「ルーマンだって ちゃんと人間を論じているよ(!)」とかいった理由によるのではない。

なるほど ルーマンの議論において「人間」は、基本語・術語としては扱われていないわけであるが、そのことが意味するのは、

  • 「人間とは何であるのか」という問いは、この理論の枠内で決着をつける必要がない、

という議論構成になっている、ということである。言い換えるとそれは、

  • 「人間」が「何であるか」は、「それについて何が言われ・その言葉(=ゼマンティク)とともにどのような生活が営まれているか」に関する分析の中で(ほかのことと併せて)解明されればよい

という扱いを受けている、というだけのことである*。

* 同じことは、「個人」などの概念についても言える。
ちなみにこれが、野尻先生からお返事があったら書こうと考えていた、私の回答のミニマムである:

一方で、「人間」概念は「理論語」として扱われていないのだから、それを放棄する必要が ルーマンにはない。そして他方、ルーマンには、「人間とは何であるか」について、一般的な仕方で解答を与える必要もない。


人間について論じる」ことは、社会学者の仕事である以前に、社会の側ですでに生じていることである。そして、社会の中で「人間」概念が放棄されておらず・実際に用いられ続けているのに、社会学者が勝手にそれを放棄する などということは あってはならないことだろう。当然ながら、ルーマンも そんなことはしていない。




ところで、「序説」って新訳があるのね。