さて、当ブログにはめずらしく、DQNアトラクター オートポイエーシス についての話題。
下記著作をお持ちの山下和也先生──ご専門はドイツ敬虔主義神学だとのこと──が、「ルーマンの誤り」なるものについて関説していたので ちょっと絡んでみるよ。
オートポイエーシスの世界―新しい世界の見方 (近代文芸社新書)
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オートポイエーシスの教育―新しい教育のあり方 (近代文芸社新書)
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目次
当エントリ:
端緒
山下先生曰く
自己言及は、オートポイエーシス論の中でもっとも問題が多いところでして、理論的に整理するのに苦労したところでもあります。なにせ、これに関するルーマンの記述は、河本先生も指摘してますけど、実質間違ってますから。ルーマンは、構成素間の産出基礎づけ関係と、産出プロセスネットワークの閉鎖を自己言及と呼んでしまうんですね。これ、無理です。河本先生も言う通り、この時点でシステムの自己は存在していませんから。ここにある関係はせいぜい再帰で、この再帰的関係の成立がはじめてシステムの自己を生み出します。したがって、自己言及とは、オートポイエーシス・システムが実現した後の話なのです。
http://blogs.dion.ne.jp/autopoiesis/archives/6271042.html
河本英夫によるルーマン批判はいくつかあるが、そのすべてについてルーマニ屋から反論がなされているわけではない。というか、反論が出ている論点のほうが少なく、そして これ↑は──私の目に触れた限り、公表された論文等においては──おそらくまだ出ていない*ほうに属する。
で、反論がない**うちに、──市場のとある方面では──どうやら 「ルーマンは間違っている」というのが「正しい」見解だ
ということになって流布しているようであるw。世の中たいへんだなぁ。
現時点では***、「この論点の どこに焦点があるか」ということに関する 私自身の見通しは 比較的はっきりしている。すなわち、
河本氏が提起した(=ルーマンの議論には無い)主導的な区別〈要素/構成素〉を、ということ。
- ルーマンの術語で再記述できなければアウト、
- できればオッケー(=河本氏アウト)
だから問題は、この点について事情はどうなっているのか、ということなのであるが、まぁともかく山下先生のお返事を待ってから──改めて──考えてみることにしよう。
** ただし、「自己言及」と「認知」を軸に、河本-ルーマンの比較を(ルーマンサイドから)おこなった──したがってかなりオタク度の高い──論文として、次のものがある:
- 菅原 謙、2003、「「区別」と「統一体」と「自己準拠」―ルーマン理論における―」 in 『市民社会と批判的公共性』
*** ディスカッションを経て私自身の見解が変わらない限りにおいて、ということ。
質問1 2007年10月02日 22:46
とりあえず、ウルトラにベタな質問をふたつ投げておいてみた。
http://blogs.dion.ne.jp/autopoiesis/archives/6271042.html#comments
- Q1.
「この時点でシステムの自己は存在していません」というときの【この時点】とは、どういう時点のことでしょうか。- Q2.
「再帰的関係の成立がはじめてシステムの自己を生み出」すという文における【再帰】という言葉で どんな現象を考えていますか?(こちらはできれば例があるとありがたいです。)
回答1 at 2007年10月03日 11:31
回答きた。
山下先生いわく:
[‥]
- 1.まず、ルーマンで言うと「コミュニケーションがコミュニケーションを産出する」と言われている時点、さらに一般化すれば、構成素の産出が基礎づけ関係によって連鎖しているだけで、まだ産出プロセスのネットワーク状連鎖が閉域を形成していない時点です。そして、ルーマンの言う操作的閉鎖、ネットワークが閉域を形成した時点ですね。これによってはじめてシステムの自己が成立するわけで、操作的閉鎖そのものを自己言及と言うわけにはいかないのです。閉鎖以前には自己が在りませんから。ルーマンは「基礎的自己言及」と呼んでしまってますが。
- 2.河本さんの例が一番わかりやすいと思います。円を描いて走っていて、それまでの自分の軌跡のどこかと交わるというケース。実際にはこれが多次元のネットワークになっているわけですが。細胞システムの産出を例にとれば、構成素である細胞高分子の産出プロセスが互いに基礎づけあいながらネットワークを形成していき、細胞形成に必要な細胞高分子を過不足なく産出できるように成った時点で、すべての構成素産出プロセスがお互いに基礎づけあうことができていて、もはやそれ以上のプロセスを必要としなくなり、一つのまとまりとして独立することです。これがつまりシステムの実現になるんですが。ネットワークの基礎づけ関係が内部で完結するので、再帰と表現しました。ルーマン流に言うと、これが操作的閉鎖です。
[‥]
http://blogs.dion.ne.jp/autopoiesis/archives/6271042.html#comments
1のポイントは文字色をかえた二箇所の差異。(これがまさに〈構成素/要素〉という区別に対応している*、というわけですな。)
2の「閉鎖」の例はさっぱりわからん。どうしたものか。
質問2 2007年10月04日 20:23
返事した。
お返事ありがとうございました。主張は次の様に整理してよいでしょうか:
やや迂遠な表現がたくさん入っていますが、そうなる理由は後段にてご理解いただけるかと思います。
- A)ルーマンは次の二つを区別していない:
- [pr]「構成素の産出が基礎づけ関係によって連鎖している」もの
- [cl]「産出プロセスのネットワーク状連鎖が閉域を形成」したもの
- B)ルーマンはまず、「区別していない」というその点で誤っている。
- C1)ルーマンは [pr] を「自己言及」という語で表現している。
- C21)ところで「自己言及」という語は、「自己」をもつものに対して用いられるものである。
- C22)したがって、目下の議論において「自己言及」とは「システムの自己言及」を意味する。
- C31)すなわちルーマンは、[pr] を「システムの自己言及」だとみなしている。
- C32)すなわちルーマンは、[pr] を「システム」だとみなしている。
- D1)しかし [pr] には「自己」つまり「システム」と呼びうるものは無い。
- D2)だからここで「システムの自己言及」は生じようがない。
- E)ルーマンはその点でも誤っている。
山下さん(〜河本さん)は、この〈[pr]/[cl]〉という区別を端緒に置くことで、〈システム/環境〉区別を端緒に置くルーマンの議論を引っくり返そうとしているのだろう、と私は理解しています。
そしてなるほど、この〈[pr]/[cl]〉という区別が正当なものであれば、ルーマンは間違っています(し、そうでないなら山下さん(〜河本さん)のほうが間違っています)。ですから、議論の焦点はこの区別にあり、[pr] [cl] というのがそれぞれどういう事情を指しているのか、詳しく検討してみる必要があるでしょう。
──と、それはそうなのですが。
しかしその話に立ち入るまえに、山下さんの(そしてそもそも河本さんの)議論の前提になっているらしい
- C2-C3:「自己」という語は、システムに対して用いられるべきものであり、ルーマンもそうしている
という主張について、簡単に確認させてください。
というのもルーマン自身は、
- L1)基底的自己言及という表現における「自己」は、「要素」のこと
だと述べているのであって*、──贅言すると──
- 「自己」という語を「システム」以外に対して(も)使っており、
しかも/そもそも、- 「基底的自己言及とは、システムの自己言及である」とは 述べていない
からです。
* たとえば『社会的システムたち』isbn:4769908083 第11章を参照のこと。ちなみに L1 は、その同じ章のなかで 次の用語法と対照されています:
- L2)過程的自己言及における「自己」は、「過程」のこと。
- L3)反省的自己言及における「自己」は、「システム」のこと。
ですから、
- ルーマンは [pr] をシステムの自己言及だと述べている
と認定したうえで
- ルーマンの議論は間違っている
という判断くだしている山下さん(〜河本さん)の議論は、まずこのレベルで──「実質」どころか── はじめから間違っている ように、私には思われるわけです。
というわけで──事柄に即した検討ではなくて恐縮ですが──、以後の議論の混乱を避けるために、まずはこの点について 山下さんの見解を聞かせていただければと思います。
念のため述べておくと、「基底的自己言及」という語が指示している事態が、そもそも「自己言及」という語で表現されるべき事柄なのかどうか、ということは、それはそれで検討されてよいことです。
私が指摘しているのは、それ以前のことです。http://blogs.dion.ne.jp/autopoiesis/archives/6271042.html#comments
質問2-2 2007年10月04日 20:35
で、続き。
もう一点。
山下さんと河本さんの諸著作を再読してから投稿できるとよかったのですが、目下のところ残念ながらその暇がありません。以後の議論で要らぬ混乱を招かぬために、朧な記憶をたどりながら、この件に関する私の理解を示しておきます。議論や言葉遣いについて間違いがあれば、この時点で指摘していただけるとありがたいです。http://blogs.dion.ne.jp/autopoiesis/archives/6271042.html#comments★[pr] 構成素の産出が生じている だけでは、[cl] システムがある とはいえない というテーゼについて:
一方で、
- 構成素の産出は、システム形成なしにありうる。
また他方で、
- 或るシステム要素の産出が生じているとき、それと同時に・膨大な数の 構成素の産出が生じている。
しかし、- 産出されるすべての構成素が、或るシステムのシステム要素となるわけではない。
だから、
- 構成素とシステム要素は区別しなければならない。
では、その区別の基準はどんなものか。
つまり、ある構成素 が あるシステムの システム要素 である といえるのはどんな場合か。
それは、
- その構成素が 産出プロセスのネットワーク閉域に入るもの である場合
である。
‥‥こんなところでしょうか。
──とそのうえで。もうひとつリクエストを。
[cl] の例として、細胞における生化学反応をあげていただきました。しかし、★テーゼについては、
- たとえば 生化学現象について ★ が言えるのかどうか。
ということだけではなく、──ルーマンの議論の妥当性について吟味しようとしているここでは──、
- 特に コミュニケーションについて ★ が言えるのかどうか。
という点が問題になります。
なので、なにか、[cl] に相当するコミュニケーションの例を挙げていただけると、それをもとに議論を進められて よろしいかと思います。
言い換えると、山下さんが「再帰」とか「閉鎖」という言葉で指しているのは、コミュニケーションについていうと、どんな経験的な事柄に相応するのでしょうか。それを教えてください。
本日はここまで。
回答2 2007年10月05日 22:04
適宜 改行を入れさせていただきましたよ。
[‥]
まず、問題になるのは、ルーマンがシステム実現後の私や河本さんの意味での自己言及も、自己言及と呼んでいるせいです。ルーマン自身が区別しているつもりなのはいいのですが、あまりにもミスリーディングです。
もう一つ決定的なのは、構成素と構成素の間の産出基礎づけ関係も、ネットワークの操作的閉鎖も構図として自己言及になっていないこと。
問題はシステムの自己言及かどうかではないんですよ。自己言及の構図にはまっているかどうか、なんです。自己言及と言う以上、何らかの既存の自己からで出て、同じ自己へ還る再帰的な働きが必要です。ところが、構成素の産出基礎づけも、操作的閉鎖も、スタート地点へ逆戻りするような形にはなっていません。操作的閉鎖は一見そう見えますが、回帰した点はそれ以前に決まっていた自己ではありませんから。
この意味で、ルーマンのようにこれらまで自己言及と呼ぶのは無理だと思います。河本さんの言うように、システム実現後の自己言及に限るべきではないでしょうか?
あれ? あれ? あれれ?
これで終わりじゃないですよね? 続きがあるのよね? お待ちしてます....
回答2-2 2007年10月05日 22:40
お。続きだ。どうもどうも。
実を言うと、構成素というのは、システムの産出物のうち、閉鎖している産出プロセスのネットワーク状連鎖の基礎づけ関係に参与しているものを特定するために、河本先生が作った造語です。したがって、あくまでも産出物であって、システムの要素ではありません。生物現象の場合で言うと、細胞分裂は進んである程度の生体器官は形成されたけど、結局生物として誕生しなかった場合がそうですね。コミュニケーションの場合なら、発せられたけれど、無視されて、次のコミュニケーションに連鎖しなかった場合がそうです。もちろん、どちらの場合も、構成素とは言えず、ただの産出プロセス連鎖の産出物ですけど。ネットワークが閉じ、システムが実現してはじめて構成素です。コミュニケーションの再帰と閉鎖ですが、同じコードのコミュニケーションのみが連鎖している状態と考えてください。例えば、野球の話はその中で閉じていて、その中でサッカー用語はノイズにしかなりません。
[‥]