野尻英一「カントとヘーゲルにおける有機体論の差異について」

またすごいものを読んでしまった。



 ルーマンに代表される現代システム論は,単なる比喩としての有機体モデルから進んで,意識とシステムについての洞察を組み込むことで,自己言及的なシステムの理論に至った。現代システム論は,システムの本質として「自己言及性」を指摘することで,論理的には完全な理論構成を誇る。そして,それは,社会変革の可能性や人間の主体的な自由についての楽観論を許さない。ルーマンは,社会を「計画」することは不可能であると言い,「主体」としての個人は幻想だと言う[Luhmann 1990*: 117, 179-180]。システムは意識されたときにはすでに作動しており,意識もシステム作動の条件である。こうしたシステムを考えるとき,システムに「外」はない[河本 1995**: 158-160]。

  こう考えるとき,人はただ「システムがある」,「システムのみがある」と言い得るだけである。[p.78]

http://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/handle/2065/9488


....と来れば、次に、じゃぁなぜそう言えるのか

なぜ・どういういみで、「ルーマンに代表される現代システム論」のように システム概念を規定するなら 人はただ「システムがある」,「システムのみがある」と言い得るだけである、などといえるのか

という根拠の提示が続く、と思うじゃないですか。当然。
でもそうじゃないのですよ。なんと、このように続くのです。びっくりです:

システムは意識されたときには作動しており,意識され続ける限り作動する。これが自己言及的システムの論理である。これによれば,社会という事象を意識的に対象化して研究しようとする社会科学ですら,その研究によってシステムの作動に貢献することになってしまう。そのような意味でシステムに外はないと言われる。

 このような理論構成は,論理として完全ではあっても,われわれ自身や社会についての理解に,何もつけ加えない。とりわけ,われわれと社会(システム)の関係の問題,言いかえれば「自由」や「意志」の問題に何も光を投げかけない。システムからの出口はない,という帰結のみが残る。[p.78-79]

何いってるかわかんないけど。

まぁともかくも、こう↑来れば、次に、じゃぁなぜそう言えるのか

なぜ・どういういみで、「ルーマンに代表される現代システム論」は、われわれ自身や社会についての理解に,何もつけ加えない。とりわけ,われわれと社会(システム)の関係の問題,言いかえれば「自由」や「意志」の問題に何も光を投げかけない。システムからの出口はない,という帰結のみが残る などといえるのか

という根拠の提示が続く、と思うじゃないですか。当然。
でもそうじゃないのですよ。なんと、このように続くのです。びっくりです:

しかし,本当にそうであろうか。

 ルーマンは,意識も「意識システム」として,生命システム,社会システムなどと並列な,一つの自己言及的なシステムとして捉えようとしている[Luhmann 1990: 114]が,これには無理がある。[p.79]

....と来れば、次に、じゃぁなぜそう言えるのか

なぜ・どういういみで、意識を「システム」として捉えることには無理がある などといえるのか

という根拠の提示が続くはず。では、どうして?:

意識はあらゆる自己言及的システム作動の「十分条件」であり,それゆえに,意識はシステムから逃れることは出来ない。しかし,同時に意識はシステムの「必要条件」でもある。意識がなければ,システムは作動しない。地球上から全人類が消失すれば,すべてのシステムは消失する。少なくとも自己言及的なシステムは消失する。[p.79]

....(゚Д゚)ハァ?


そもそも「必要条件」とか「十分条件」ってのをどういう意味で言ってるのか、ってことからしてすでにもう よくわかんないんだけどさ。
「地球上から全人類が消失すれば」、すべてのコミュニケーション──たとえば、すべての経済的な取引──は消滅するに決まってるけど、

少なくとも そのような意味で、コミュニケーション・システムは、コミュニケーション参加者の「意識の働き」に依存している と言えるだろうけど、

だからといってそれがどうして「意識をシステムとして捉えることには無理がある」理由になるの?

ついでにいえば、免疫システムが働く時にも「意識がなければならない」の? ありえなくない?
あと「地球上から全人類が消失」したとしても、たぶん大腸菌とか消滅しないよね?

わけわかんないよ。というか理由教えてくれないと!


でまぁ.....。何事もなかったかのように(?)、論文は このように続いていきます......:

こう考えるとき,意識とシステムとの共働的な関係について緻密に考えていく余地はまだあると言える。

 その作業の準備として,われわれは「意識」と「システム」とが分離される地点へ遡る必要がある。これが本論考のねらいである。思想史的には,その地点は,カントとヘーゲルの間にある。有機体という対象を自然界に見出す「視角」が,意識,概念,理念など 人間主体のもつ諸能力の重なり合った作用 によって生まれることを初めに洞察したのは,カントであった。そして,そのような有機体を見出す「視角」から,体系や歴史,社会という人間にしか見えない特有の構成物が生みだされることを見抜いたのは,ヘーゲルであった。[p.79]

そんなふうに勝手きままに想像力を羽ばたかせていいなら、どんな主張にだって「余地はある」だろうねぇそりゃ。




追記1
ちなみに、参照されている箇所(p.117)で どんなことが言われているのか確認してみると....
まず、p.117 の直前、p.116でニクラス・ルーマン先生曰く....:

By now, this may be ununderstandable enough. But whoever gets this message will at least see the possibility of defining the individuality of an individual as autopoiesis. This leads us back to the late scholastic position with which I began. There is no individuality ab extra, on self-referential individuality. But this means that cells and societies, are all individuals. Conscious system have no exceptional status. They are a particular type....

Essays on Selfreference (p.116)

「「個人」なんて幻想だ」というのとは まさにちょうど反対のことが言われているように読めるんですが????


で、参照されている p.117 では....:

Given these constraints [=意識をオートポイエティックなシステムだと捉えることから生じる制約], we are free to chose conscious systems as the system reference most appropriate for what we want to express if we claim to be individuals ourselves. This comes very close to what has been done under the heading "transcendental reduction"(Husserl).

We drop, however, the distinction between empirical and transcendental. It contradicts the essential unity of the autopoietic process reproducing thoughts out of thoughts (as elements out of elements). Transcendental theory was, after all, a desperate attempt to avoid circularity. The theory of self-referential systems accepts circularity as a basic necessity.

This insight destroys the formula of the individual as the subject. My guess is that the traditional experience (...) of ennui will provide better clues for a theory of the autopoiesis of conscious systems than the concept of subject did. The seventeenth century made a twin discovery: the subject and its boredom. In other words, the subject has to occupy itself with something, be it economic or aesthetic. Motives, the are to be thought of as filling the inner void, the empty circularity of pure autopoiesis, of the reproduction of the elements of consciousness by elements of consciousness; and boredom corresponds to the thinking othinking. During the seventeenth century, both the subject and its ennui become socially acceptable self-descriptions.

Essays on Selfreference (p.117-118)

どう読んでも「「主体」としての個人は幻想だ」などとは言ってません*。
本当にありがとうございました。

* 言ってるのは、「「主体」というのは、17世紀には肯首性のあった・自己記述のために用いられる 歴史的概念だ」(大意)、ですね。




■追記2
コメント欄にてコメントをいただきましたので、「とりあえずのお応え」を、こちらにアップしました: