2月3日に書いた
- 野尻英一(2006)
「カントとヘーゲルにおける有機体論の差異について─社会科学の起源を探る─」
in 『ソシオサイエンス』vol.12, 早稲田大学大学院社会科学研究科
http://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/handle/2065/9488
についてのエントリに、著者の方よりコメントをいただきました。
目下エントリを挙げている余裕がないので コメント欄で簡単なお返事を ──と思ったのですが、書いてみたら中途半端に長くなってしまいました。ので、こちらに載せておきます。
以下、コメント欄に書こうとしていたものをエディタから貼付け:
野尻英一さま
はじめましてこんにちは。コメントありがとうございます。
「こちらの場でこのまま反論を展開してもよいものか
」とのお問い合わせをいただきましたが、
どうぞコメント欄をお使いください。私のほうは 目下エントリをあげている余裕がないのですが、しかし あと一週間以内には何か書けると思います。
この論文、私は何度か読んだものの(前エントリに書いたように)よく理解できませんでしたので、著者の方に教えていただけるならありがたいことです。ぜひ下記の点についてご教示ください。
【1】前エントリにおける3つの疑問点について。
私は、論文を拝読して分からなかった点について、「なぜ・どういういみで、Pであるといえるのか」 という形式で3つの疑問を記しました。
なるほど、私がとりあげたこの箇所は この論文の主要部分ではありません。しかし、この論文の意義──ヘーゲルにおける「有機体」概念を現時点で検討することの意義──について述べた所なのですから、論文にとって重要な箇所ではあるはずです。そして、その箇所が理解できなかった為に、私には、この論文の「意義」が理解できなかったわけです。
カント・ヘーゲルの有機体論については」「
問題ではない」から言及していない、というわけではありません。 私の疑問は それ以前のところ で生じている、というだけの話です。この点(=論文の構成と主導的論点)については、次のエントリで簡単にではあれ 触れられればと考えています。
というわけなので、まず この↑三つの疑問点に 解説をいただきたいところです。
【2】「断定的否定」?
ところで野尻さんが、「[酒井は] かなり断定的にルーマンのテキストについての私の解釈を否定して
」いる、と書かれているのを見てびっくりしました。前述のように、このエントリの主要部に書いてあるのは「疑問」ですから、それを「断定」と言われると なんだか不思議な感じがします。なので、野尻さんが、前エントリのどの部分を取り上げて、「断定的に〜」と評されたのか教えていただけますか?
【3】Essays on Self-Reference, p.117 について
『Essays』の参照箇所についての野尻さんの読みを(論文よりも詳しく)書いていただきました。敷衍していただいたのは、論文での参照箇所(p.117)ではなく、その直前の箇所(p.116)であるように思われるのですが、まぁそれはさておき。
【敷衍★】それをさらに要約して曰く[改行は引用者による]:
http://d.hatena.ne.jp/contractio/20090203#c1233805049
- 西欧の哲学がとりつかれてきた<主体としての個人>という考え方は捨てさるべきで、個人(この場合は人間個人)は自己言及的な個体、つまりオートポイエーシスとして理解されるべきだ。
- そして、そういうことでいえば、あらゆるシステム(細胞、社会、物質原子、免疫システム、脳, etc.) が自己言及的な個体なのである。
- 意識システム(これがルーマンの主旨では「主体としての個人」と重なるようですが)をこれら他のシステムとは異なった例外的な地位におくことはできない
【要約1】それで──念のために確認したいのですが──、
ルーマンの論旨は多少込み入っていますが、主筋を整理すれば、ということだと思います。 http://d.hatena.ne.jp/contractio/20090203#c1233805049
- 人間個人を「主体としての個体」としてとらえることをやめるべきだとして西欧近代的な主体概念および主体的個体概念を批判し、
- そのことを「意識システム」を例外的な地位におくことはしないという、彼のオートポイエーシス論からの主張と重ねている
- 野尻さんは、
【敷衍★】
の【要約1】
を、さらに【要約2】
と再定式化できると考えている
『主体』としての個人は幻想だ
しかし、もし そうだとするなら、私はもうこの地点で、野尻さんの議論をフォローできなくなっています。つまり、
- 【敷衍★】は【要約1】へと圧縮できる
- 【要約1】は、【要約2】へと再要約できる
が、まぁこの点は(今回は)マイナートピック扱いにしておいて、ここでは もっと別の質問をさせていただきましょう:
さて。
ルーマンは、p.116-118 あたりの短いページの中に、少なくとも三つのトピックを叩き込んでいます。
- 個人の個体性をオートポイエーシスとして捉えることは、「subject としての個人」という定式を破壊する [p.116]*
- この試みは、ある点でフッサールの謂う「超越論的還元」に非常に近しいものになる [p.117]。
- 17世紀に 〈subject -と- ennui〉というペアの発見があった [p.118]**。
** 前エントリで原文を確認した箇所:http://d.hatena.ne.jp/contractio/20090203#addendum
そこで、私としては、次の質問をしてみたくなるわけです:
- 「
『主体』としての個人は幻想だ
」という読解のもとで、しかし、2 や 3 は、どのようなものとして──1 と整合的に──読むことが出来るのか。
言い換えると、
- 野尻さんは、「トピック2 や 3 が、どうしてこの場所に・こうした仕方で登場するのか」という点についてどう考えているのか。
私のコメントについて「ルーマンの件のテキストの全体の主旨を掴んでおられないか、あるいは何らかの意図のもとに彼の主旨を無視されている
」と評される野尻さん自身は、この点に関しては、どのような見解をお持ちでしょうか。
【4】追記
野尻さん曰く:
私は基本的には学術論文への反論は、学術的なマナーを維持した場(論文、学会、研究会、あるいは私信)で行っていただくのがルールかと思いますので(そうしませんと、2ちゃんねる的な安易で不毛なやりとりになりがちです。また学術コミュニティの発展へも寄与しません)、その点で、酒井様の批判スタイルにはなじめないものを感じます。管見しましたところ、酒井様も私と分野は異なるとはいえ学会活動をなさっている研究者の方とお見受けしましたので、なぜこのような批判の手段を選ばれたのか、とその意図にいろいろいと推測をめぐらしているところです。
- 当ブログのプロフィール欄[→]にも記してあるように、私は「研究者」ではありません。したがって、
「その意図にいろいろいと推測をめぐらして」
いただく必要はありません。 - それにしても、野尻さんの、
「学術的なマナー」
か/さもなくば「2ちゃんねる的」な安易で不毛なやりとり
か、という図式は なんとも安易で不毛に思われるのですが。
- それに、
論文、学会、研究会、あるいは私信
でのやりとりでなければ学術コミュニティの発展へも寄与しません
とか言われてしまうと、「えっほんと!?」と驚いてしまいます。 - とはいうものの そもそも 私のほうには「学術的マナー」につき合わねばならない理由も「学術コミュニティの発展」への寄与を目指さねばならない理由も──審美的なもの以外には──ありはしない、したがって、いずれにせよ こうしたことが 私の側にとって深刻で切実な問題となることはないという事情は あるわけで、なので「寄与するかしないか」なんてことは私にとっては 基本的には どうでもいいこと ではあるのですが。
- 簡単な話、私と野尻さんが まともなやりとりをしようと実際に努めれば、実際にまともな*やりとりはできるんじゃないでしょうかね。 どうでしょう?
以上です。