二次の観察について:その5

mixiルーマニ屋>「デリダとルーマン」スレのために。
ルーマン『社会の芸術』第二章「一次の観察と二次の観察」(XII 観察と脱構築) を巡って。その5。 エントリの17番について。(引用箇所はエントリの18番に掲示しました。)


まず【引用9】について簡単なコメントを。
「同一性」は様々なやり方で「不安定化」されうる(し、実際されている)わけですから、同一性の内容の不安定化をもたらすものとして、「機能分化に基づくシステムの閉鎖性」を挙げることと「二次の観察」をあげることは重なりあいつつもずれてくる、などと悩む(?) 必要は、そもそもありません。


以下本日の主題。
Mさんのコメントを拝見すると、私が前エントリで示した「言葉の使い方」-と-ババボンの次の箇所の「言葉の使い方」とを首尾一貫して捉えられないような 読み方をしてしまっている、ということのようです。我々のやりとりをその端緒で脱臼させている理由の一つは、ここにあるでしょう。

 統一性を確証しようとするこの試みによって提起されるものを、「同一性」と呼んでおこう。同一性は統一性の内部において、「法の本質とはなにか」「法はいかにあるべきか」といった問い(反省)への回答として呈示される。この同一性は特定の内容をもちうるが、それは人工的で偶発的な、自己単純化に依拠しなければならないということをも意味しているのである。
 閉鎖性とは、システムの隅々までがこの同一性によってコントロールされるということを意味するのではない。法システムの同一性を確定しようとする反省の作動もまた、〈合法/不法〉に基づく法システムの一部に他ならない。したがって、反省の試み自体が反省の対象(統一性)を変化させることになる。この点を無視して特定の同一性を「あるべき本質」についての問いへの回答として導き出すためには、自己単純化が必要不可欠なのである。
 また機能分化に基づくシステムの閉鎖性は、同一性の内容そのものをも不安定化させる。機能分化=システムの閉鎖化によって、システムは「自己単純化」の手がかりを外部に求めることができなくなるからである。(馬場靖雄『ルーマンの社会理論』p.117)

 このことは逆に、──「助言」を求められているので、若干チャリティー度を age て(当者比)お応えしますが──、私の示した「術語の使い方」とババボンの記述を首尾一貫して読むように配慮しつつババボンを読むコストを払えば、Mさんは、自分の「読み」のどこがラフだったのか・どんなバイアスをかけて読んでいたのか、などなどに気づくことができるかもしれないことをも示唆しています。(これはよきこと。)

「助言」につづけて「答え」まで書いてしまうと「教育的効果」が薄れないかどうか気になりますが、もう少しだけ敷衍しておきましょう:
  • ババボンの上記引用部においても、「同一性は指示される/統一性は(用いられるが)指示され得ない」という図式は保たれています。そのうえで、
  • 議論には、その論題に応じた限定が施されているわけです。たとえば、
    • これは、「二次の観察」のうちでも、特に「反省」(=他者観察ではなく自己観察)についての議論であり、
      • しかもそこでは──単に「観察」が問題になっているのではなく──観察の成果を或る程度明確な形で固定すること(〜「記述」)が問題となっており、
    • ここで焦点が当てられているのは、(反省の作動と相関した)「〜とは何か?」という問いへの答え(としての 同一性)である ──というように。
ちなみに、このトピックは「自己主題化」という論題がついているものです。


 そのことに気をつけて、いま一度ババボンと私の「使い方まとめ」とを並べたうえで──ご自分が、両者を首尾一貫したものとして読まないことを可能にしていた事情について省察しつつ──読んでみていただければと思います。ということで、私の「助言」を一言でまとめておくと、こうなります:

テキストはもっと丁寧に読みましょう。


 ついでに言うと、エントリの17番で、Mさんは、二重のいみでアブナイ橋を渡ろうとしています。(というか。おそらくすでに渡ってしまっています。) 一つは──すでに述べた──私が示した「言葉の使い方」とババボンの言葉遣いを「異なる」ものとして捉えてしまった点で。

こちら↑については、Mさんが いまのところまだルーマンのテクストにあまり馴染みが無い(のであろう)ことを斟酌することができますが、こちら↓の方はいささか「深刻」で、「情状酌量」の難しいものです。つまり、

もうひとつは、ババボンの議論が「同一性一般」についての議論ではないことを見逃しつつ──つまりそれが「何であるかということ」をめぐる議論であることの特定性・限定性(のいみ)を見逃しつつ──、何性quidditas といういみでの 同一性のほうから「ルーマンの謂う同一性(なるもの)」を捉えようとしてしまっている、という点です。

そしてMさんが、そのやり方を、まさにほかならぬ「脱構築と二次の観察の比較」というトピックのなかでおこなっていることが、私に目眩を起こさせるのでした。
「おなじものle meme」について、それを「何性」-を範例にしながら/の方から-、一般的な仕方で扱おうとすること。 ‥‥このやり方は、存在論的-神学的-論理学的なonto-theo-logical 形而上学 のほうへと勇敢にも一歩足を踏み出そうとするための お馴染みの やり方(の ひとつ)でした。そして/しかも、デリダを読みながら、そのような 警戒の解除 を行ってしまっていることがいみするのは.....?
ついでに書いておけば、前エントリにおいて私が、(「同一性」ではなく)「或るもの」という言葉を使うように提案しておいたのは、前エントリを私が書く以前までのMさんの議論が、すでに上記の事情を疑わせるものであったから なのですが、こういう「予測」が的中してしまうのは、あまり楽しいことではありません。


【引用10】について:
ここでMさんは──「同一性」に加えてさらに──、「固有値」と「客体」という語を新たに導入されました。(残念ながら私は、この「導入」が なんのつもりで・なんのためにおこなわれたのか つかみかねています。)
まず、引用していただいた文章を、再掲しておきましょう:

 システムの諸作動が回帰的ネットワークを形成するなかで一時的に安定した状態が達成され、それが以後の作動の出発点として用いられるようになったとき、その状態を固有値と呼ぶ。(ババボン:p.18)

コミュニケーションを可能にする規則なるものは、コミュニケーションが接続していくという事実をふまえて、事後的にのみ認定されうるものであった。(ババボン:p.115)

 それゆえ次のように推測してもよいだろう。コミュニケーションをコミュニケーションへと回帰的に適用することから生じる客体は、どんな種類の規範とサンクションにも増して、社会システムに必要とされる冗長性を〔すなわち、秩序を〕もたらすのに貢献する、と。(『社会の芸術』邦訳 p.72)


α+βを──そしてその「帰結」である(1)を──想起してください。

ルーマンを読む時には、何度でも想起しなければなりません。──そうしないと、そもそも「何を言っているのか」がわからない。

1)指示される〈或るもの〉とは、指示(=区別)の反復──時-空を隔てて繰り返し指示(=区別)すること──(の効果)である。

固有値」や「客体」は──そしてまた、ここに『社会の芸術』2章で登場する「物」を付け加えておくことができますが──、それらがルーマンのテクストに登場してくるコンテクストをさておけば「作動の指示先referent」にして「反復の効果」という点では変わりがありません。(つまりそれらは、「反復」の「異名」なのです。)

つまり──デリダがかつて使った表現を借りれば=翻訳すれば──、それらは「超越論的なシニフィエではない、というわけです。
ついでに、逆の翻訳もしておきましょう。人口に膾炙し(てしまっ)た「テキストに外部はない」というフレーズは、自己言及と他者言及は切り離すことができないというテーゼにパラフレーズできます。
私には、後者の表現のほうがずっと穏当で好ましいものに思えますが。まぁ、これは「趣味の問題」かもしれません。
ちなみに、そのパラフレーズを可能にする再記述をルーマンがおこなっている箇所こそが、『社会の芸術』第2章XII節の、邦訳p.161の6-9行目およびp.162最終行-p.163の11行目 の部分──つまり、たったの3頁しか無いこの節の中で、Mさんがいままでのところ 決して参照・引用しようとはしなかった まさに-その 箇所──なのですが。

 逆にいうと。前提αからルーマンの議論が出発している以上、その議論の中に登場してくる「もの」はすべて、(1)の「異名」でしかありえないわけです。それは議論の構成上「それ以外ではあり得ない」仕方でそうなのです。このことは、すなわち次のことをいみします。
 αも(1)も、「それ自体」としては証明ができない「命題」であり、これらを「現象の説明」のために用いることはできません。

ついでにいうと、ここからはまた、様々に登場する異名たちは、それが登場してくるコンテクストに即して理解されることこそが重要なことなのだ、ということもいえます。そのことが、後ほど「換言」する理由になるのですが。(つまり、「異名」たちのどれかを「基礎的なもの」だと──そしてそれ以外のものを「派生的なもの」だと──考えようとするのは無理・無駄だ、ということ。)

 αや(1)は、「証明可能な命題」として「理解」しようとされるべきものではなく、また「説明」に用いられるべき概念や命題ではなく、

言いかえると、そのような意味での「理論的命題・理論素」ではなく、
実際におこなわれる──「ザッハリッヒ」な──記述的解明の中で、使われることによってその有効性が示されねばならないような、そのような「命題・概念」(というよりも、「命令=指令instruction」)だ、ということ。


換言。
「同一性」を、「固有値」や「客体」──や「物」──に「関連づけ」ようとする(ならまだしも、さらに、後者のほうから前者を捉えようとする)のではなく、これらは──α+βにしたがって──、〈作動に即した対象の記述〉に使われ(たうえで、その使用を通じて理解され)なければなりません。

しかしながら、いまMさんがそうしているように──システムを(〈システム/環境〉区別を)記述しようとするのではなく──「システム論」について議論しようとしているうちは、このことは、ずっと「繰り延べ=先延ばし」にされつづけるでしょう。


このエントリは以上 ──なのですが。
ルーマンの側」については、Mさんの読みのどこに難点があるか間接的には示せたと思います。したがって、以降は、「そちら側」について、つまり、目下のところ焦点があたっている「同一性の書き換え」──の、特に「書き換え」という語──についての敷衍を リクエストしておきたいと思います。

同一性の(統一性の?)-内在的な-書き換え: その出来事は、──それは出来事なのでしょうか?──、どのように場所を持つのでしょうか。 そのとき-その場所で? 空間的 懸-隔も、時間的 遅-延もなしに?
というのは。
「そこ」に空間的懸-隔や時間的遅-延あ る のなら、それは、観察されているシステムの作動(〜first-order)であるか、観察するシステムを観察するシステムの作動(〜second-order)であるかのいずれかでしょうから。 ‥‥「単独の」出来事(そのもの)については、我々は語り得ないでしょうから。


ルーマンの社会理論

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