宴の支度@四谷

作業に復帰。



  • a: 「システムである」といえるのは、その「何か」が要素となる、いいかえればその「何か」を要素とする全体なるものが観察される場合だけである。
  • b: したがって、システムの同一性をたてる操作が経験的に同定されないかぎり、「システムである」は単純な循環論法になる。

なんか飛躍がある。「システムの同一性をたてる操作」という言葉で「〈要素からなる全体〉の同一性をたてる操作」といいたいのだろう、と解しておく(しかない)

  • a: 「システムである」といえるのは、その「何か」が要素となる、いいかえればその「何か」を要素とする全体なるものが観察される場合だけである。
  • b': したがって、要素からなる全体なるものの同一性をたてる操作が経験的に同定されないかぎり、「システムである」は単純な循環論法になる。

これなら筋は通る。



さて。
ここで佐藤さんは二つのことを議論の前提にしている:

  • テーゼS1: システムという語を使えるのは、〈要素からなる全体〉を指定できるときだけである
  • テーゼS2: 【〈要素からなる全体〉の同一性をたてること】とは、
    【当該やりとりにおいて、そのやりとりの全体が主題化されること】(社会システムの自己主題化⊂反省)である

二つをあわせると、

  • テーゼS0: 【当該やりとりにおいて、そのやりとりの全体が主題化されること】がない場合、
    そのやりとりは【システムである】とはいえない

が導かれる。
ここに、

  • : 70年代のルーマンの議論においては、【「相互作用」においては、そのやりとりの全体が主題化されることはない】とされていた

を加えると*1、めでたく

  • : (70年代の)ルーマンの謂う「相互作用」はシステムとはいえない

という「結論」が導かれることになる。


で、この議論のまずい点は(まずは)二つ:

  • 前提S1とS2は、佐藤さんが勝手に置いたもの。
  • Aはテキストの誤読。
特に前者は不思議。
さらにいえば、S1 は せいぜい「言葉の使い方」レベルの話だけど、S2 はそうじゃない。
論文全体を通して、これがまったく吟味されていない。明示的に書かれた暗黙の前提(!)。
後者はなんだろうなぁ。前者に引っ張られちゃったのかなぁ。


とかここに書くと当日見に来てくれる人が減っちゃうか。
続きは はてな論文グループにて。

*1:これ自体が事実誤認なのだが、それはさておき