宴の支度@四谷

というか盛り下がってきたのでまた写経。

基底的自己準拠ってなんですか

3 システム論の「言語論的転回」[p.104]

 より広い文脈でみれば、これパーソンズからルーマンへの、システム論の転回]は前期ウィトゲンシュタインから後期ウィトゲンシュタインへの転回に通じる。ウィトゲンシュタインが『論理哲学論考』の原子論を捨てるきっかけとなったのは、友人である経済学者のスラッファが指先であごをなでて、「これの論理形式は何だい」と問いかけたことだった(この挿話には異文があるが)
 単位行為の考え方にもこれはそのままあてはまる。何が-いかなる行為であるかは、それが接続する文脈による。行為があって組み合わされるのではなく、他の行為とどう組み合わさっているかで、何の行為かもかわりうる。ここでも関係づけの問題にぶつかる。
 ルーマンはそこにシステムを見ようとした。「行為は何より、システムの他の行為への その行為の関係づけの選択によって 内容を与えられる(‥)」(Luhman 1978:60)。文脈しだいで変わりうる行為の意味を私たちが同定できるのは、それらがシステムをなしているからだ──ルーマンは「ホッブズ問題」をそう変換したともいえる。[‥]
 システムは意味ある行為によって構成されるだけでなく、行為の意味を構成する。特定の関係を実現し、それとともに他の関係の可能性を潜在的に保持しながら。

このへんにはとりあえず異論なし。

社会システムのオートポイエーシス

ちなみに、上記文中で、

  • 「何が-いかなる行為であるかは、それが接続する文脈による」
    =「[システムが]行為の意味を構成する」
    =「特定の関係を実現し」

が、構造のもとでの作動の現実化(図中の左側、下に向かうライン)にあたり、

  • 「システムは意味ある行為によって構成される」
    =「他の関係の可能性を潜在的に保持しながら」

が、作動による構造の開示(図中の右側、上に向かうライン)に相当する。‥‥というのはあらずもがな解説。


ところでスラッファの話はこれ↓に載ってたっけなぁ。つーかこれ、講談社学術新書──で、ずーっと絶版だったん──じゃなかったっけ?

ウィトゲンシュタイン (平凡社ライブラリー)

ウィトゲンシュタイン (平凡社ライブラリー)

6 境界と自己産出[p.110]

 ルーマンのシステム論の特徴として、システム境界が決定的に重要である点がいわれるが、それは例えばこういうことである。システムがあって、その部品として境界や構造があるのではない。境界は構造であり、システムそのものである。それは空間的なものではなく、意味的なものなのだ。

「境界=システム」はいいとして、「境界=構造」はまずいんじゃね?