ルーマン『社会の法』二章(法システムの閉鎖性と妥当シンボル)

仙台ルーマン読書会


第二章「法システムの作動上の閉鎖性」第8節再訪。再度、最終(20)段落──妥当シンボルの時間的性格──について。

  • 「作動の現在-と-回顧と先取」の同時性については、「法的決定」について論じた7章および『入門』III「時間」などを。
  • 〈システム-と-環境〉の同時性については、十章「構造的カップリング」を。
2章「作動上の閉鎖性」8節(20)[p.116]7章「裁判」3節(07-10)[p.431-433]/4節(02-05)
10章「構造的カップリング」1節(05)
妥当に関する 唯一放棄されえない根拠は、時間のうちに存する。より精確に言えば、全体社会システムおよびその環境のあらゆる事実的作動の 同時性のうちに、である。現実に生じるあらゆるものは、今 生じるのであって、過去や未来において生じはしないのだから。
  • 法システムが妥当シンボルを用いることができるのは、判決=決定という神秘的な形式においてのみである。[p.433]

  • システムは、それが作動する時点においてのみ存在する。そしてその際、その時点において同時的な(これはつまりコントロール不可能な、ということでもある)世界から出発しうる。[p.431]
  • 現時性(Aktualität)に関して言えば、時間地平は空の地平である。この地平は、現在を方向付けるために役立つにすぎない。そして時間地平は現在とともに変化していくのである。
  • ところで同時性とはすなわち、同時に生じていることに影響を及ぼしたり、何が生じているかを知ったりすることはできない、ということに他ならない。
  • したがって、推定、仮定、フィクションに頼らざるを得なくなるのである。
  • 妥当シンボルの妥当は、この無能力に依拠している。
[「作動の現在 における 回顧-と-先取」を超えて] 時間拡張が可能となるためには、「区別としての現在」──〈過去/未来〉という差異 の統一としての 現在──を投入しなければならない。それによって現在は、アクチュアルでないものへと拡張していく時間、という意味での盲点となる。それが可能であるからこそ、現在を決定の時点として利用しうるのである。
つまり、過去に関してはもはや変更できないものを/未来に関してはまだ変更しうるものを 固定し、同時的な世界に 「所与の選択肢」という形式を与えることができるわけだ。あるいはこういってもいい。
過去/未来という時間地平に関しては、選択的にふるまいうる。というのは、それらは必然的にアクチュアルではありえないからだ。その選択性を用いて選択肢を構成できる。そして今度はその選択肢が、状況を決定状況として把握することを可能にするのである。決定は、このようにして時間化されることによってのみ登場しうるのである。[p.432]
  • 決定=判決は、過去によっては(...)決定されない。判決は、判決に固有の構成の内部で作動する。その構成は判決にとっては現在においてのみ可能なのである。
  • 判決は、未来における現在に関する帰結を引き起こす。判決は、それがなければ成立しなかったであろう可能性を、開示もしくは封鎖するのである。[...] [p.432]

  • 裁判は、過去を、「先例」というフォーマットによって再構成する。[...] その際、情報を制限するために現行法が役立つ。現行法は [...] 過去の産物として仮定される。
  • 裁判は、未来をデザインしなければならない。裁判が未来において同様の事例に直面した場合に従うことになるであろう決定規則をデザインすることによって──つまり、(...)現在を、「未来からみた過去」として構成することによって──である。[p.451]
 過去と未来を媒介するこの形式は、[「作動の現在 における 回顧-と-先取(〜把持と予持)とは異なる、〈過去-現在-未来〉という] 第二の時間を必要とする。つまり、現在に集中した・現在において構成された・現在とともに変化する時間を、である。しかしリアリティのうちには*、この「第二の時間」が介在すべき余地はない[...]。じっさいにはいつも、生じるもののみが生じるのだし、現に生じるあらゆるものは同時に生じる[=「作動の現在」において生じる]のだから。[p.452]
実際、吟味なしに次のように仮定するしかないではないか。すなわち、ある瞬間において、法システムおよびその社会的・心理的環境の他の諸作動も、妥当シンボルを確証している筈である、と。
  • [プロセッシングの「アナログ」的側面:] 様々なシステムは、共通の時間の中で同様に齢を重ねていく**。(そのために時間をはかる必要はない。[→世界時間])
  • [プロセッシングの「ディジタル」的側面:] 各システムは、それぞれ異なる速度を持っており、また未来ないし過去のどの時点にまで影響を及ぼし得るかという射程も異なってくる。そしておそらくは、システム内で個々の出来事として構成されるものがどのくらいの時間の幅を持つか も異なるのである。
  • したがって、時間それ自体はあらゆるものにとって同様に流れており、それによって構造的カップリングが──作動とは無関係に──維持されることになるのだが、
  • 他方でこの時間のなかに さまざまな区別を組み込むことが出来るのである。[p.579]
  • 構造的カップリングが保証するのは、そのつどの出来事におけるシステムと環境の 同時性Gleichzeitigkeit ──だけなのであって、同期Synchronisation までもが保証されるわけではないの──である。[p.581]
* むしろ「アクチュアリティのうちには」というべきではないのか。
** これはもちろん、アルフレート・シュッツの定式である。


「システム要素の出来事性-と-出来事の同時性」というトピックに関してフッサールに直接に言及しているものには、たとえば 1995年におこなわれた講演「近代科学と現象学」がある(恥ずかしくてここにはとても書けない邦訳タイトルを持つ論文集 ISBN:9784130101059 所収。たとえば 訳書 p.24-30 参照。)
ただし、いちばん紙幅をとって敷衍しているのは『入門』III なので、検討の際はそちらを見るのが吉。>誰か

....なのだが。
ルーマンは この議論を、──私の知る限り、どの著作/論文においても*──
読者が傍らにフッサールのテクストを置いて読んでいることを前提にしている(!)としか思えないような、
泣きたくなるような大ざっぱさでしかしていない。なので、この点については、読者の側で「なんとかする」しかない。
* これは、論文「同時性と同期」も含めて言えることだが。