コミュニケーション・メディアと作動的/構造的カップリング

烏龍茶の飲み過ぎで寝れません。

Die Gesellschaft der Gesellschaft

Die Gesellschaft der Gesellschaft

第2章「コミュニケーション・メディア」第11節「象徴的に一般化されたコミュニケーション・メディア 3:構造」レジュメ作成の続き。id:contractio:20060720#1153407553
(9) [55]。コミュニケーションメディアと機能分化は一対一対応していない件について(=貨幣コードも権力コードも法に依存しているが、依存の仕方が違う)。


『社会の法』ISBN:458800767X ISBN:4588007688 の前に、そのダイジェストであるこっちをみておくよ:

法の社会学的観察

法の社会学的観察

まえおき [p.112]

 経済システムは、所有と貨幣というコードによっている。所有権を有しているかいないかという明確な区分がなければ、いかなる取引も不可能であろう。にもかかわらず、取引の経済的帰結と法的帰結は、まったく異なっている。というのは、それらは、異なったシステムにおいて、異なった回帰的ネットワークのなかで、異なった基準と具体的な諸条件のもとで生じるからである。経済システムおよび法システムは、独立のものであり、またそうあり続ける。どちらも作動上の閉鎖性という条件のもとで作動する。しかし、このことはとりわけ、所有と契約の形式において、構造的カップリングという特別なメカニズムを必要とするのである50

50 他の重要な必要条件としては、18-19世紀にかけて、政治的特権と独占から独立した法人法と特許法とを、また忘れてはならないものとして、銀行システムが含まれる。後者は、経済が要求した信用メカニズム、すなわち十分な富をもたずとも支払うことのできる能力にたいして、貨幣と他の(真の)所有との十全な分離と再カップリングを与えた。

「というのは」のあとがぜんぜん「理由の提示」になっていない罠。

経済コード(所有と貨幣)の法への依存:所有と契約 [p.112-]

 この点については、14世紀初頭に多くの歴史的例証が存在する。すなわち、

  • 法システムはこうした要求に順応し、所有と契約における自由の許容範囲を──ゆっくりと、そして多くの疑念をともないながらも──拡大したのである。
    • 所有の中核となる意味は、google:バルトルス以来、防御と使用(usus)と享受(fruitio)に加え、処分(disposatio)を含んでいた51
    • 同様に、契約の制度は──達成される蓋然性は低かったのであるが──変形され、一般化された。すなわち、契約は、実際の争いを解決するだけでなく、それら争いを調整しまた回避する法的な装置を供給するローマ市民法のもっとも重要な法的考案物であった。
  • 実際の身分に基づく階層的分化から機能的分化へ移行する間に、社会は要求および動機を創り出し、また行使することのできる所有の範囲と法的保護をともなって結ぶことのできる契約の範囲の拡大にたいして正当性を創り出した。
    • 訴権(actio)および召喚状の名のもとに市民法およびコモン・ローの伝統が整備した法廷への出訴期限は消え去り、そしてついには──19世紀の英国においてのみではあるが──契約が、コンシダレーション(約因)を欠いても、私的意思の基礎のうえに妥当するものとなったのである52
 所有と契約に関する近代的構想によれば、法システムと経済システムとが統合されることはなく、いわんや分化が解消されることもない。それらは構造的カップリングのメカニズムとして、これらのシステムの相補的な刺激と影響とを組織し、長い間には、双方のシステムのなかで構造的発展の自然な成り行きを組織する。とくに、調整の状態がこの連結を前提にし、所有と契約とを用いる自由度を再び制限することによって、それを政治的介入のメディアとして両システムにたいして投入するのである。

「調整の状態」ってなんだ。原文確認のこと。(>誰か)

権力コードの法への依存:「法治-国家」定式と憲法 [p.114-]

 ここで法システムと政治システムとをカップリングする同様なメカニズムを探るならば、18世紀後半の革命運動から生じた──近代的な意味での──憲法という形式のなかにそれを見ることができよう53。歴史上の革新、法的形式の変動は、具体的な政治的状況によって、また概念のヴァリエーションを道具的に用いることを認める可能性によって生じた54。このことは、政治的および法的「統治権」の統一を提案する「国家」という近代的な概念によって重視されてきたのである。[‥] 憲法は、システムを分離し、その構造的カップリングを用意する。

  • 法システムの究極的なパラドクスとトートロジー(すなわち、法が合法ないし不法と配置するものはすべて法である)は、政治システムヘ言及することによって展開され(たとえば、人々の政策的意志それ自体が憲法に付される)、
  • また政治システムのパラドクスとトートロジー(すなわち、自己をも対象とし、拘束する絶対的統治権)は、
    • 実定法に言及することによって、
    • また法システムを憲法上の適法性と憲法によらない適法性に超コード化することによって、展開されうるのである55
 憲法の制度的な正当化は、政治的な機能にも法的な機能にも還元されない。またそれは、憲法自身の有する価値ある言語にも、また憲法がもろもろの価値を有しているというその価値にも存しない。憲法は、政治的作動と法的作動の相互的な動揺を包摂しかつ排除するという二重の機能に役立つ。包摂作用と排除作用というこの二つの側面をもった形式が、システムの分離を維持し、あいまいな重なりというものをもつことなく分離したオートポイエティックな再生産を可能にするのである。このことはまた法システム(また他方では政治システム)が孤立して成立するという事態(‥)を回避する方法と、またシステムの内部で役立つものをシステム内部のスクリーンに情報として構成する方法とを特徴づけている。[‥]

作動的/構造的カップリング

[‥] 単独の出来事として観察されるならば、出来事は異なったシステムに関わることができる。

  • 支払いは、同時にまさに同時であるときにのみ)、法システムにおける契約上の義務の履行となり、また将来の支払い能力を経済システムに移動させるという経済的処理の一部となる。

同様のことが、政治的および法的レリヴァンスの双方を有すると考えられる立法行為にあてはまる。観察者にとっては、これらの局面を一つの出来事として同一視し、それと異なった二つの作動と理解することは不可能かもしれないが。しかしながら、それ自身の基本的な作動を発生させるシステムは、

  1. 有意味な同一性を構成するために、システム自身の回帰的ネットワークと、当のシステムにおける前後の作動の接続を必要とする。
  2. システムは、そのシステムのなかで繰り返し使用されることに向けて、同一性を凝縮し、さらに固定する56
  3. システムがなにに言及するかに応じて、出来事の前提条件と帰結は、システムにとって、まったく異なったものとなる。

箇条書きにした箇所は、「システムであるとはどういうことか」についてのまとめにもなっているわけですが。

で、ルーマン解釈のヴァリエーションは、おおむね こいつ↑──「構造の-もとにおける-作動」とはどういうことか──の理解の違いに依存しておるのだと思うわけですが。
それはさておき、


で、どう違うのでしょう?

というか何がわかればいいのだ俺は。