本文600頁、注150頁。
これだけの分量を費やして語られてもわからないことは この先 一生わからないんだろうな、と諦めがつくので とてもよいですね。
そして、これだけの分量がある──というだけでなく「注釈」と銘打っている──にもかかわらず索引が付いてないのは最低ですね。
ドゥルーズ『意味の論理学』の注釈と研究 - 岩波書店 |
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memo
- 1953(28歳)ヒューム ISBN:4309242235
- 1956(31歳)ベルクソンにおける差異の概念 ISBN:479175817X
- 1962(37歳)ニーチェと哲学 ISBN:430946310X
- 1963(38歳)カント ISBN:4480091300
- 1964(39歳)プルースト ISBN:4588011278
- 1965(40歳)ニーチェ ISBN:4255850429
- 1966(41歳)ベルクソニスム ISBN:4588010638
- 1967(42歳)マゾッホ ISBN:4309464610
- 1968(43歳)差異と反復 ISBN:4309462960 ISBN:4309462979
- 1968(43歳)スピノザと表現 ISBN:4588003216
- 1969(44歳)意味の論理学 ISBN:4309462855 ISBN:4309462863
- 1972(46歳)反エディプス ISBN:4309462804 ISBN:4309462812
- 1975(50歳)カフカ ISBN:4588000853
- 1976(51歳)リゾーム ISBN:4255870195
- 1980(55歳)千プラトー ISBN:4309463428 ISBN:4309463436 ISBN:4309463452
- 1981(56歳)スピノザ ISBN:4582764401
- 1981(56歳)ベーコン ISBN:4309247490
- 1983(58歳)シネマ1 ISBN:4588008552
- 1985(60歳)シネマ2 ISBN:4588008560
- 1988(63歳)襞 ISBN:4309247199
- 1991(66歳)哲学とは何か ISBN:4309463754
序論
本文600頁のうち、序論が100頁。
『意味の論理学』が、政治的にも社会革命を指向した著作であると述べるときには、あわせて著者が「革命」という語をどのようなものだと理解しているのかも述べていただきたいところ。
- [33]
「パオロ・ディオリオのような文献学的ニーチェ研究者の側から、差異あるものだけを還帰させる永劫回帰や否定的なものを排除する選別といった考え方は、ニーチェのいかなるテクストの中にも見出し得ず、そもそもドゥルーズ自身が根拠となる明確なテクストを挙げていないという批判もなされている。ある意味で、それは当然のことである。ドゥルーズにとって、ニーチェ解釈とはまさに、単なる研究である以上に、自分自身の哲学の核心となる思想を彫琢していくための通り道だったからである…。」
ドゥルーズに対してこれを言うのが許されるなら、ドゥルーズ解釈にも許されそうなもんですが。他の人々だって、「単なる研究である以上に、自分自身の哲学の核心となる思想を彫琢していくための通り道として」と釈明しながらドゥルーズ解釈してなんで悪いのか、という話になるよねぇ。偉い人の独創的改釈は有意義だけど下々の者のそれには意義がない、といったことなのであれば理解できますが。
第一章 命題と意味、あるいは経験的な事態と超越論的な出来事(第三次整序から第二次組織へ)
- [120]
「ポテンシャル・エネルギーが純粋な出来事のエネルギーであるのに対して、現働化の諸形態は出来事の実現に対応している」
現実化してないものを「出来事」と呼ぶのは、日本語の語感としては不思議な感じ。論理学や確率論では event を「事象」と訳すが、ドゥルーズについても こちらの訳語の方が相応しそうな気はする。- 事象 (確率論) - Wikipedia 「確率論において、事象(event)とは、試行によって起こり得る結果をいくつか集めた集合である。」
- [126] 問題と解
「ロトマンは、問題の解として産出される数学…の諸理論と、それに先行する問題そのものとしての問答法的なイデアとを分け、一貫して前者から後者へと向かって上昇していこうとする傾向を持っていた。」
- [126] 偶発事/出来事
「さて、偶発事とは物体的=身体的で感覚的、そして経験的なものである。それに対し、出来事とは非物体的=非身体的で理想的、そして超越論的なものである。当然、ここにはある種のプラトニズムが見出せるだろう。」
128で、出来事には「経験的な出来事」と「理想的な出来事」がある と言われているので、「出来事」と「偶発事」はどちらも出来事なんだね。本書で狭い意味で「出来事」と呼ばれているものは、「イデア的事象」とでも呼び直したほうがよさそう。
1-2「ドゥルーズの命題論理学──命題の三つの次元と意味」
- 【学び】
・到来するもの:イデア的なもの
・言われるもの:言葉を使ってしか指示できないもの
・到来するもの=言われるもの - [132]【問い】言葉はいかにしてイデア的なものを表現しうるか
- [139] 命題の四つの次元
①事態の指示
②心理状態の表明
③概念的な指意
④イデア的なものの表現 - [142]【テーゼ】命題の意味とは、「木になること」とか「緑色になること」などのように、不定法の動詞で表現される運動や変化(つまりイデア的事象)のことである。
これで、『意味の論理学』というタイトルの意味が半分わかりました。命題によって表現されるイデア的事象の論理学。まだ解説されていないのは語「論理学」の意味。
- [145] 「意味と重ねられる出来事は、多数多様な出来事の星座=布置として成立している。」
語「星座」の使い手でした。
- [147] 宗教的なものの意味をめぐる二つの立場
・派生的な夾雑物によって覆われて忘れ去られている宗教の根源的な意味をその純粋な起源において発見し回復しようとするもの
・宗教の意味を結果=効果として捉え、それを生産する別の機構や過程を扱う脱神秘化の理論を築こうとするもの
そんなに違うかな。一段ズラしただけでは。
このズラしに格別な意味があると思えるのは、宗教に格別な意味があると思える人だけではないでしょうか。
1-3「構造における空虚な枡目──存在論的な永久革命の原理」
- 【学び】ドゥルーズの哲学においては、永遠回帰の存在論はイデア的領域において語られる。
- [148] 本節の作業
「『意味の論理学』では、永遠回帰を稼働させる賽の一振りは、構造における「空虚な枡目…」と呼ばれるとともに、意味の論理学における「無意味…」とも呼ばれることになる。よって、われわれは構造と空虚な枡目の関係から出発し、空虚な枡目にまつわる誤解を先に解消したうえで、意味と無意味の関係に進み、最終的に空虚な枡目がどのように存在論的な永久革命と結びついているのかを見ていくことにしたい。」
- ◆エドモン・オルティグ『言語表現と象徴』せりか書房、1990年 ISBN:4796700390
- ◆ロマーン・ヤーコブソン「ゼロ記号」ISBN:4582768342
- [165]
・言語体系として一挙に成立するシニフィアン
・シニフィアンにシニフィエを割り当てる部分的で漸進的な人間の活動
両者を対比して、シニフィエに対してシニフィアンが過剰であることを「不均衡」と呼んでいるようなのだが、この理屈がわからないな。さらに、「不均衡な連携によって構造の中に差異が吹き込まれ」(168)とかいう話になるのでなおさら理解し難い。
すぐ次の箇所に答えが書いてあるっぽいと思って読んだらヤバい内容だった。
- [168]
「レヴィ=ストロースにおいては、われわれ人間の有限性の産物であったシニフィアン(言葉の体系)とシニフィエ(認識)の不均衡は、あらゆる芸術や詩、そして神話的にして美的な発明を担保するものであった。宇宙とわれわれの間を切り裂く根源的な不均衡や齟齬が、われわれの思考を駆り立て、規制の秩序を超過したものの創造を可能にするというわけである。しかしドゥルーズは、出来事の超越論的哲学を築く際、一方ではそうした創造的な不均衡を存在論的な原理へと拡張しつつ、他方ではその不均衡が創造するものの中に、ある重要な一項目を自ら進んで付け加えてみせる──それが革命である。」
そんなこと言われても困るよ。
- [168] ドゥルーズ先生曰く:
「シニフィアンとシニフィエという二つの系列が与えられると、シニフィアン系列の自然な過剰と、シニフィエ系列の自然な欠如があるのだった。すると必然的にあることになるのが、「…浮遊するシニフィアン」である──だが付け加えよう、それはあらゆる革命をも担保しているのだと。」
不均衡が人間の有限性にもとづいているなら、それが問題になるのは経験的な領域においてではないのだろうか。どこからどうやってイデア的な領域における「不均衡」について語れることになるのかわからないよ。
- [169] 革命についてドゥルーズ先生加えて曰く:
「革命家は、技術の段階的進歩と社会的な全体性とを切り離す隔差の中で生き、その隔差に彼の永久革命の夢を刻み込む。この永久革命の夢はそれ自体で行動であり、現実であり、あらゆる規制の秩序に対する効果的な脅威であり、革命家が夢見るものを可能にするのだ。」
- [171] ドゥルーズ先生曰く:
「人民であるとともに詩でもあるそれら夢幻機械の中に、何か官僚的なものがあるだろうか?」
むしろなんでそんなに官僚が嫌いなのかの方をまず教えてほしい。
1-4「ドゥルーズと揺籃期の分析哲学(フレーゲ、ラッセル、マイノング)」
- ◆カルナップ『意味と必然性』ISBN:431400844X
1-5「指示対象なき意味の問題と実在論の系譜(リミニのグレゴリウス、ドゥンス・スコトゥス、アヴィセンナ)」
- ◆ユベール・エリー『複合体によって意味されるもの』
- ◆エミール・ブレイエ『初期ストア哲学における非物体的なものの理論』月曜社、2006年 ISBN:4901477250
- ずっと気になっているのだが、「超越論的」という語への注釈が出てこない。たとえば、
「ドゥルーズのいう出来事とは、まだ実現されていない純粋なポテンシャル、現実的な事象とは区別された理想的な生成であり、それ自体としては現在=現前の経験的な次元を離れた超越論的な次元に属している。」
(223)
のような文章が頻出するのだが、こうした文に登場する 超越論的 だと言われているものの多くは単に「超越的」なものにしか見えない。超越論的だと言われているものが「経験的なものの条件」であることまでは言われているが、経験的なものの条件であれば超越論的であるわけではあるまいよ。 - [248] ブスケ:
「私の傷は、私よりも前に実存していた。私はそれを具現化するために生まれたのだ。」
この↓理屈はおかしくないかなぁ:
- [248]
「ドゥルーズがブスケに言及するのは、ブスケが単に凄惨な事態を引き受けて生きることを選んだからではない。それだけではストア派の表象の使用と何ら変わりなく、クロノスの倫理からアイオーンの倫理へと移行することはできないだろう。重要なのはむしろ、ブスケが凄惨な出来事の実現から始まるはずの宿命的な崩壊や破滅の秩序を抜け出し、自らを新たに詩人へと変貌させてみせたこと、自然の息子から出来事の息子へと生まれ変わってみせたことに他ならない。出来事の永遠真理を把握し、その具現化を意志することとは、まさに宿命を打ち砕く賽の一振りを投じるための闘いと一体になっているのである。」
そもそも「意志」という語をこんな↓風に使ってるわけで、このおかしさはもう「出来事」という訳語の比ではないですね。
- [253]
「物体=身体の秩序を離れ人間的な意識や自我、内面性から解放された意志、つまり出来事を満たす無意識のポテンシャル・エネルギーとしての非人称的な力の意志はアイオーンの中で賽の一振りを放つ。」
フランスの人、どうしてこんなに「人間」や「意識」や「自我」や「内面性」にこだわらないといけないのか といつも不思議に思いながら読むのであるが、まぁフランス人だと仕方ないんだろうな。しらんけど。
あと、人間に関わる語彙を使って非人間的な事柄を表現するのも二枚舌感半端ないよね。しかも、非人間的な事柄を話してるふりして、人間的な事柄を密輸してるとしか思えないことあるしなぁ。こういう作法は とても「哲学的」ですね。
[254] 長々と引用するに値する文章:
したがって、革命家としての賢者は、到来する出来事を現在の平静な心境においてただ受け入れて耐えるのではなく、逆に好機の瞬間にはおいて賽を放ち、積極的にその出来事(=意味、構造)を変異させることを意志する。…
- 帝国主義戦争を革命戦争に至る内乱へと転化させることを主張し、後には実際にブルジョワ革命をプロレタリア革命へと変異させたレーニン
- バティスタの圧政とアメリカ帝国主義の経済的支配に抗して武装蜂起したカストロとゲバラ、
- 北ベトナムのゲリラ軍を指揮するザップと南ベトナム解放民族戦線といった、耀かしきゲリラたちの機銃掃射。
- 革命を反復するべく、すべての自己同一性を捨てて再びゲリラに戻ったゲバラと(それはまさに行動=xとしての運まかせの点との同一化だ)、その傷と死を全世界の反抗の象徴へと昇華させた彼の壮絶な創痕と死。
- 欧米の帝国主義にもソ連や中国の赤い帝国主義にも与さない第三世界社会主義の栄光、すなわちアルジェリア民族解放戦線のファノン、エジプトのナセル、ユーゴスラビアのティトーク、チリのアジェンデと彼を支持する革命的な人民。
- 「英雄的ゲリラ」の肖像を掲げたパリ五月革命の反逆者たち。
- 「スクェア」な既成の価値観と道徳を挑発し、死と隣り合わせの狂気をもってドラッグやアルコール、ジャズに身体を浸して感性の実験を試みた「天使の頭をしたヒップスター」ビートニク。
- 極彩色の衣服に身を包み、マリファナやLSD(「インスタント禅」)によってサイケデリックな甘い夢を描きながら、終わりなき戦争や人種差別に詩的な異議申し立てをしたヒッピー。
戦争に抗する戦争、傷に抗する傷、死に抗する死──「ストア派の賢者」は時に機銃を構えた高潔なゲリラとして、時に極彩色の服をまとって自由を求める長髪の若者として、そして時に街頭を占拠すべく駆け寄る無名の民衆の輝きとして、歴史の中に現れる。「敷石の下は、浜辺だ」。1969年の『意味の論理学』は、変様したストア派の倫理とともに、彼らに向けて讃歌を捧げる。
身体の刺し傷を変異させるための表面の機銃掃射。あぁサイケデリア。
第二章「物体=身体の深層とその二つの相貌、宿命に抗する運命愛(第二次組織から第一次領域へ、また第一次領域から第二次組織へ)」
2-1「『差異と反復』から『意味の論理学』へ──精神分析の態度の変化と連動した存在論的な枠組みの変化(アルトーとキャロル)」
- [260] 『意味の論理学』における存在論の枠組みをなす三つの次元:
①第一次領域:表面の下で蠢く分化していない深層
②第二次組織:出来事が属す表面。非人称的かつ前個体的である超越論的な場
③第三次整序:出来事の時空的な実現によって形成される事物や事態。表面の介入によって分節化された深層(分化した深層)
2-2「力動的発生(一)──妄想分裂ポジション(クラインとドゥルーズ)」
- [283] 力動的発生:第一次領域[深層]から第二次組織[表面]が形成されること
①妄想分裂ポジション | ②抑うつポジション | ③性ポジション | ④エディプス状況との対峙と去勢 | |
局所論 | 深層の第一次領域 | 「高所」の深層への介入 | 身体的表面の形成とリビドーの組織化 | リビドーの脱性化。非身体的表面の形成 |
精神医学的診断 | 統合失調症 | 躁鬱病 | 神経症、幼児的多形倒錯 | (思考による)倒錯 |
意味 | 下意 (深層の無意識) |
前意味 | 共意味 | 表面の意味と無意味 |
言葉 | 叫びや吐息といった騒音 bruit | 声 voix | 話 parole | 動詞 |
・・・と、読みながら表を作っていたら、407に著者が一覧表をつくってくれていた。
- [287]
「乳房との関係は乳首との色や形状の類似によってペニスとの関係にずらされ、」
そんなこと言われても困るよ。
- [296]【話法】
「それらが単にまだ研究の日が浅いことを示すだけのドクサに過ぎない以上、あえてその非創造的で通俗的な誤読を引き受けながら、またもう一つ別の新しい誤読によってその裏をかいてみせる必要性があるようには思えない。」
いつか使う。
第三章 「出来事の永遠回帰、その実現と反実現(第二次組織から第三次整序へ)」
3-1「ガタリ以前のドゥルーズとラカン──象徴的な構造の位置づけとその変様」
精神分析から逃げられなかった。二章でクライン-ドゥルーズの異同を細かく確認したのは、ラカン-ドゥルーズの距離を測るためでもあった模様。
- [411] テーゼ: ラカンの「想像的ファルス」とドゥルーズの「ファルスのイメージ」は違うよ。
- [412] テーゼ: 『差異と反復』『意味の論理学』でドゥルーズが念頭においているのは『欲望とその解釈』(1958-9)頃までのラカン理論である。
- 419まで「象徴界」なるアイディアの帰趨。
- 420から「対象a」について。
- 420 テーゼ
・対象aの[ラカンの理論展開史における]出自は想像界にある。
・これが後に「現実界の対象a」になっていく。 - 421から「欲望のグラフ」について。
- 428で ようやくドゥルーズに帰還。
- [437] 言葉のお約束:
「ドゥルーズは、
・構造を、「解決すべき問題」とも呼び、
・構造が具現化された特定の事物や事態を、その「解の事例」と呼ぶ。」 - [437]
「構造主義的な精神分析に依拠する60年代のドゥルーズが、欠如のイデオロギーに縛られて袋小路に陥っており、ガタリとの出会いがそこからの脱出をもたらした……というような整理は正しくない。」
これはごもっとも。
3-2「永遠回帰におこえる離接的総合(ボルヘス、クロソウスキー、ライプニッツ)」
- [453]
「経験的なものの発生を規定する超越論的な諸構造が変形するということは、われわれの生きる経験的な世界が、局所的にではあれ、革命のように根底から別のものに変革されるということに他ならない。」
構造の変形を語るのに、「革命」という語彙を使うと、著者は「諸構造の変形はほとんど起こらない・生じにくい」「構造は変わりにくい」と考えているかのように見えるんですが。もしもそうでないのなら、今度は逆に なぜそれを「革命」という語彙で語るのかが謎になってしまいそうなので、どっちに転んでも語彙の選択がよくわからないですね。
- ◆ボルヘス「八岐の園」 ISBN:4003279212
- [460]
「ドゥルーズによれば、構造全体を変形する賽の一振りは、当の構造を構成する各系列を変形する投擲が複数組み合わさることで成立している。」
なら「一振り」じゃないじゃん...。 - [463]【話法】
「革命が、何らかの実現された状態や制度を指示するというより、むしろ純粋な変革の運動そのものを表現しているのと同様に、超人とは、特定の実現された個体であるというより、むしろ個体が自己同一性という殻を破って別の個体へと変形していく運動そのものなのである。」
運動そのもの話法である。 - 460 いつ出てくるかと思っていた可能世界論がようやく出てきた。
3-3「解に先立つ発生的な審級としての問題と問い(ロトマン、シモンドン)」
- 図式
・問い:賽の一振り
・問題:超越論的な構造
・経験的な事態および命題:解
この節では──〈問い|問題|解〉のうちの──問いと問題の違いを扱います
- ◆アルベール・ロトマン『数理哲学論集:イデア・実在・弁証法』月曜社、2021年 ISBN:4865031103
- ◆米虫正己(2008)「ドゥルーズ哲学のもう一つの系譜について」 ISBN:4582702732
ここまで読み進めてもなおいまだに「微分」なる語の意味がわからぬ。
- 483からシモンドン。
- [485] 結晶化
・過飽和:エネルギー的な条件
・結晶核:構造的な条件 - [488] シモンドン先生曰く: 物理的な個体化と有機的な個体化
「
・システムが、ただ一度だけ情報=形態化を受け取ることができ、それからその初めの特異性を、個体化していくことによって非自己制御的な仕方で展開して増幅させるとき、物理的な個体化がある。
・もしシステムが、複数の情報=形態化の供給を継続的に受け取ることができて、唯一にして初めの特異性を累積的な効果と超導的な増幅とによって繰り返す代わりに、複数の特異性を両立可能にできるとき、個体化は、生命的で、自己制御されていて、有機的に組織されているような類型に属している。」 - 494からドゥルーズのシモンドン書評
- [494] ドゥルーズ先生曰く:
「したがって準安定のシステムは、根本的な差異を非対称性の状態として含み込んでいる。それでもなおそれがシステムであるとすれば、それは差異がそれ自身において、いわばあれこれの境界の中に割り振られているポテンシャル・エネルギー、ポテンシャルの差異である限りにおいてである。シモンドンの考え方は、われわれからすれば、ここで強度量[=内包量]の理論に近づけうるように思える。」
- ◆鈴木泉(2008)「「形而上学」の死と再生──近代形而上学の成立とその遺産」 ISBN:4000112627
- [503]
「エントロピーの増大は、経験的な次元を例外なく支配する法則だが、超越論的な次元にある強度は、そうした法則に従っていない。だからこそ強度の個体化は、たとえ局所的かつ一時的にとはいえ、経験的な自然法則を侵犯し、潜在的な出来事を既成の状態の中に炸裂させ、破壊とともに新しい個体や現象を創造していくことができるのである。」
この引用文、著者が「エントロピー増大則のもとでは、新しい個体や現象の創造は生じない(~それについては語れない)」と考えてるかのように読めるので 私は かなり拍子抜けしてしまったんですが。この点どうなんですかね。
3-4「存在論的な静態的発生──離接的な諸系列の収束と対象=xの同定、個体と人物の形成(ドゥルーズによるライプニッツ再読)」
この節では──〈問い|問題|解〉のうちの──問題と解の関係を扱います。
- [531]
・諸系列の収束から始まる第一の水準が「良識」の原理を築き、
・対象=xの同定による第二の水準が「常識」の原理を築く。 - 524に、環境世界と世界の区別が。
3-5「論理学的な静態的発生(第三次整序の形成)と永遠回帰の宇宙論」
この節では──〈問い|問題|解〉のうちの──「解(存在論的な命題)から論理学的な命題」へという局面を扱います。
- [541]
「われわれの自由と効力とがそのしかるべき場所を見出すのは、神的な普遍の中でも人間的な人格のなかでもなく、むしろ、われわれ以上にわれわれのものであり、神々よりも神的であり、具体的なものの中にあって詩とアフォリズム、永久革命と部分的な行動とを生気づけているような、そうした諸々の特異性の中なのだと、われわれがどうしてそう感じずにいられるだろうか? 人民であるとともに詩でもあるそれら夢幻機械の中に、何か官僚的なものがあるだろうか?」
そもそもなんでそんなに官僚が嫌いなんですか(二度目
- [542]
「われわれは、『意味の論理学』を満たす68年5月の熱気を、いわば永遠の相の下に見る必要があるだろう。」
哲学老人会みたいなことになってきました。
- [543]
「したがって、使命の遂行において重要なのは、意識的な〈私〉による自発的な能力の行使から得られる何らかの成果ではない。重要なのは、
・まず物体=身体の真相で蠢く性欲動の力を破壊欲動から解放し、
・さらにその性欲動をして、実現を司る無意識のポテンシャル・エネルギーへと変身させ続けること
なのである。別の言い方をすれば、それは
・物体=身体の深層に由来する力動から、
・賽の一振りを放つ自我なき無意識の思考と、出来事の実現を意志する「力の意志」のエネルギーとを発生させ続けること
に他ならない。」
どうやって?
「精神分析が心的な発達過程の観察によって語ってみせ、また芸術家や革命家たちが身をもって体現してみせているような、無意識の欲動を昇華し象徴化していく過程としての力動的発生──それこそが、静態的発生の反復を促し、出来事の永遠回帰という存在論的な永久革命を支えているのである。」
なんで「それこそが、静態的発生の反復を促」しうるって言えるんですかね。
第六節「系列形式の意義と各系列の概要」
- 問い:『意味の論理学』はなぜ「系列」形式で書かれたか
- [567] 『意味の論理学』という
「著作の内容を理解するためには、前から順にページをめくり、以前に提示された見解があとで修正されていく過程に立ち会って、すくなくとも大筋としては普通の哲学書と同じように直線状に読み進めていく必要がある。それゆえ当然のことながら、系列形式は、『意味の論理学』の内容理解に役立つどころか、おそらくそれを妨げている。一つの完結した哲学体系を構築しつつ、大筋としては前から後ろへと直線的に議論を進めていくのであれば、通常の哲学書と同じように、ある程度まとまった長さのあるいくつかの章に議論を区切って、内容が連続的に展開されていくようにした方が、論旨は明快になったであろう。」
大変な話になってしまいました。
「当然」とか言うな。
このすぐ後から 理由の開陳が始まるのだが、これはぜんぜん理由に見えないですねぇ。
しばらく理由を述べた後で一旦話をまとめている箇所↓ これもおかしい。
「ドゥルーズは、『意味の論理学』を通常の書物と同じ仕方で書くこともできたであろうし、内容を伝達することだけが目的であれば、そちらの方が適切でさえあったかもしれない。
『意味の論理学』の内容は、「系列」という形式を使わないと伝達できないものなのか。それとも他の形式でも伝達できるものなのか。どっちなの?
続けて曰く、
[569] だが、哲学の革新を表現するための革新的な形式の探求を、書物の構成そのものにまで適用するという目的があり、またその適用まで含めて初めて哲学の真の革新がなされるのだと考えられていたのだとしたら、昔ながらの良識的で常識的な書物のスタイルに従うわけにはいかなくなるだろう。
こちらを本気で主張しているならば、そのひとつ前の、「内容を伝達するのが目的なら通常の書物と同じ仕方で書けた」という主張はできないのでは。そしてもしも『意味の論理学』の内容が体系性を持ち、したがって体系的に表現=陳述できるものなのであれば、『意味の論理学』は系列形式で書かれる必要はなかっただろう。
このような論の運びを見ていると、この著者はこの本に、自分が本気でコミットしている主張を記しているわけではないのではないか、という疑いが生じてくるね。
ここで著者は、『意味の論理学』は迷宮のフリをしていますが、フリをしているだけなので、体系的に読んでください と述べてしまっているように思われるのだが、しかしそのような「フリ」によって成し遂げられる「哲学の革新」なるものとはナンボのモンであろうか。
さらにその次に書かれていることはもっと情けない。
- [570]
「第二次組織の離節的総合を表現する系列形式が用いられようと、『意味の論理学』の論述そのものは、第三次整序の視点からなされるしかない。なぜなら、詩人や芸術家のように制作するのではなく、哲学者として一貫した哲学体系を提示するためには、少なくとも一定の範囲では、前から後ろへと直線的に進む論証の展開と論理構成に従い、規則的な文法と概念の一般性に依拠して論述せざるを得ないからである。」
哲学だから仕方がなかったと!
確かにそれなら仕方ないですね。でも、そう言うのであれば、哲学ではなく他のジャンルで この仕事をすればよかったのに? なんで哲学書を書いたの?????
他方、
- [570]
「実際、たとえドゥルーズの哲学が、同一性の原理や矛盾律が適用できない出来事を基軸に据え、さらには論理学も出来事も融解させてしまう狂気さえ扱おうとするのだとしても、何かを伝達可能なものとして論述するためには、まず第三次整序の言葉を経由しなければならない。」
・・・と言うのであれば、そのように──体系的に──書けばいいだけじゃんね。出来ないことを出来るかのようなプレゼンでおこなうより、ずっとよくないですか?
- [571]
「ドゥルーズは、革新的な哲学にふさわしい革新的な形式を創造すべく、あそこではコラージュを使い、こちらでは系列形式を使い、またそこではコラージュを使うといったように、コラージュと系列形式を複層的に組み合わせ、書物自体に永遠回帰のカオスモスを体現させていく。それは、革命の哲学のための、書物の革命という実験であった。もし現代に生きるわれわれがそこに「知的な戯れ」しか見出さないとすれば、それは恥ずべき感性の鈍麻と思考の貧困と呼ばざるを得ないだろう。」
ついに読者を煽り始めました。
そして、573から本書自体に関する釈明が始まりました。まとめの部分:
- [574]
「われわれの選んだ道は、結局のところ一つの後退戦術なのだろう。… 約半世紀を経て、時代にアカデミックな哲学史の中にドゥルーズをどう位置付けるかが問題になり始めている状況の中、われわれがいま生きているのは、方向性を見失った明らかな退潮と閉塞の時代である。それはドゥルーズを読むことにも深い影を落とす。…われわれの解釈は、こうした俗流ドゥルーズ哲学が蔓延する反動的な状態の中で始められ、ある意味ではそうした反動の時代の刻印を色濃く受けている。」
時代が悪いので仕方がありませんでした、と。