真理ちゃんだけじゃなかったみたいなの! http://d.hatena.ne.jp/faa/20040421#p5
カードーゾの正義ちゃん |
独特の性質を持つ事態は、完全な手紙の書き方栞や、会話術必携などの中に書いてあるような、既成の解答では、とても解決されるものではない。正義は、急に攻めてみても、陥落しない。正義という女性は、徐々に幾度か近づいてから、求婚しなければならない。(カドーゾ『法の成長』*p.139-140)
でも「正義」って男の名前だよなぁ。日本語では。(ex. 損正義)
* カドーゾ、『法の成長』、守屋善輝訳、中央大学出版部、1965、定価650円。読了
Benjamin N. Cardozo, The Growth of the Law, Lightning Source Inc ; ISBN:0300094825
p.145 に出てくる「ラベレイス」さんというのは、『パンタグリュエル』のラブレー。
Benjamin N. Cardozo, The Growth of the Law, Lightning Source Inc ; ISBN:0300094825
p.145 に出てくる「ラベレイス」さんというのは、『パンタグリュエル』のラブレー。
ちなみにカードーゾは生涯独身だった、ということですが?
カードーゾはここで、いわゆる「司法過程の創造性・裁判官による法の創造」について語っているわけですが、例の使い方がすこしヘンな気も。
「完全な手紙の書き方栞」や「会話術必携」を持ち出すなら、
-
- 「手紙を書くこと」や「会話」が、既成の解答では「解決」されないのと同様に、
- 裁判も、先例拘束主義ではとても間に合わないのだ
と書けばよかったんじゃないだろうか。つまり、裁判は、手紙を書くことや会話することと同様に「創造的」だ、と。
まぁ、裁判を──手紙を書くとか会話するとかについてと同様に──「社会的-事象」としてとらえるなら、そのほうが首尾一貫する、というだけですが。
「創造的」という言葉が──「厳格で、恒久的な権限分立観」[p.138] に反するということで──批判されたのだとしたら、こう言いかえればよい。裁判は、会話と同様、コンティンジェントなものである、云々。 ‥‥いや、こっちのほうが分かりにくいか。もう数ページ先にはこんな記述が。
サンタヤーナはこう言っている*。
大統領や知事の選挙は、妻を選ぶのと同じようなもので、候補者はたいてい2人か3人しかいない。そして、この自由人に認められた特権は、精一杯のところ、これら2、3人のなかでどれがいいかを、期待に旨を膨らませながら宣言し、当選した者を押し立てていくにすぎない。
こういう諦めの気持ちで、裁判官は裁判し、弁護人はその裁判に承服しなければならないのである。[p.146]
* Soliloquis in England and Later Soliloquis, p.175
御愁傷様です。 おつかれさまです。
この本は1923年に出されたものだが、ちょっとビつクリしたことには、カードーゾはヴィンデルバンドを英訳で読んでおり、しかも肯定的に引用している。この時代は、ドイツ(や日本)においては「新カント派の時代」であったわけだが、アメリカでもそれなりにポピュラーだったのか。