chap 01 & 02。
Die Gesellschaft der Gesellschaft
- 作者: Niklas Luhmann
- 出版社/メーカー: Imprint unknown
- 発売日: 2007/05/24
- メディア: ペーパーバック
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わたしはルーマンのこのテの言明に説得された事が一度もない。「直感」が、「この議論に従うな」と叫んでいるよw。
たとえば、「「区別の統一」は、作動においては機能しているが、それ自体としては観察されえない」(大意)といった事態は、いかなる意味で「パラドクス」だといえるのか。私にはわからない。
そういえば、【「生き生きした現在」の謎】もまた「パラドクス」と呼ばれもするのだった。あれはなぜそう呼ばれるのだろう??? (どこがパラドクス?)
たとえば──こう考えること自体があまり楽しくないのだが、しかし──とりあえずのとっかかりとして、★のような言明と、〈パラドクス/non パラドクス*〉という区別の関係を考えてみたらどうだろうか。
* あるいは〈パラドクス/トートロジー〉??
たとえば第一章の注72。
「前提を前提する事」について ルーマンはやはり「パラドクス」と表現しているが、ふつうはこれ、「トートロジー」と呼ぶのではないか?
といっても──やはり/困った事に──これ↑には、「ミュンヒハウゼンのパラドクス*」というニックネームがついているわけだがw。
* いや。トリレンマか。トートロジーだよなぁ。
他方、──これでもって彼としては首尾一貫した主張をしている事になるわけだが──、ルーマンは、トートロジーもまた「パラドクス」の一種であると(様々な場所で)述べているわけなのだった。
では、そこで、〈パラドクス/トートロジー〉という区別の──他方ではなく──一方のみが、なぜ偏好されるのか?