本日のお勉強:内田『国土論』

国土論

国土論

第2章 「故郷」の記憶

  1. 記憶の可能性
  2. 唱歌社会学
  3. 〈場〉の変容と記憶



 歴史的な言説の数々や記憶の諸形態について、それらを構築せしめた政治的諸関係の [モーリス・アギュロンやエリック・ホブズボームがおこなったような] 分析 [をおこなうこと] は当然の権利であるようにみえる。[‥] しかし、この権利が十分活かされるには、記憶の領域における政治学がどのような水準で、何を準拠点にして行使されているのかということに反省的でなければならない。
 たしかに歴史記述あるいは記憶の諸形式について、われわれはいつでもそれを疑うことができる。たとえばピエール・ノラたちは「記憶の場」という概念を要請している。そこでは人ぴとの記憶の場を構成する記念行為やイメージの諸形態が、当事者たちの意識とは別に、「共和国」にそのアイデンティティを与えようとする政治的神話や政治目的との関連で構築され、変容していく過程が間題とされた。その過程には近代的な記憶術とその政治学がはたらいており、記念行為やイメージの生成はそうした記憶の政治学との関連で解読されることになる。
 記憶の政治学のこうした解読の試みは、さまざまな記念行為やイメージの諸形態がどのように機能したのか、何を隠し、何を付け加えたのかを具体的に確定しようとするが、そのために共和国のアイデンティティの形成という準拠点を担保している。記憶の場の多様なはたらきへの注目も、それが国民の集合的記憶の形成という方向に回収されていくとき、記憶の政治学という思考がより普遍的な水準で維持されることになる。そこには予定調和的な収束の回路が更新されたかたちで顔を覗かせているのである。
 しかしながら、記憶の政治性を暴露するこうした歴史学的分析には何か退屈な閉塞感がつきまとっている。過去がつねに現在の言語によって鋳直されていると見るのはいいとしても、その暴露は到達点ではなく、出発点でしかない。また、そこで用いられる言語の鋳型が一定の政治的合目的性をもつというとき、この政治的な合目的性の設定はいかにして妥当性をもちうるのだろうか。近代の言説や記憶の領域を分析するとき、この種の政治的な準拠枠として活用されるのが国民や国民国家という観念だが、この新しい「下部構造」の出現には、何か悪しき霊 [つまりマルクス主義的な「下部構造論」] の蘇りを見ている思いがするのである。[p.48-49]

まことにごもっともな ご批判である( u タグは引用者による)。






この主張は53頁で反復される:

 記憶をその政治学的な準拠点との機能的な関連で論じることは、それ自身ひとつの政治的なゲームである。それは準拠点となる政治的主体の交替によって見方が変わるゲームであり、つねに恣意性をはらんでいる。またその恣意はいつでも主観化され、イデオロギーに変貌する。ここで考えてみたい問題は、この種のゲームからずれたところにある。それは記憶を、記憶それ自身の可能性において考えてみることである。国民国家」という政治的主体を準拠点にして解読可能な記憶とは、記憶のある表層でしかない。そこでは記憶が何か政治的価値判断や意味を表象しているその位相、その限りにおいてしか問題にされないのである。[p.53]

ごもっともなご批判である。


ではどうしましょう。


先生の続けて曰く:

 それゆえ、記憶の可能性をめぐって、まず記憶という厚みそのものについて考えてみなければならない。記憶が政治的主体との関連で何かを表象しているとしても、その表象は記憶の物質的な厚みの表面に彩られた形象にすぎないからである。マーシャル・マクルーハンにしたがえば、記憶の表層に分節されたこの種の政治的メッセージよりも、むしろそうした記憶の具体的形態を支えている技術的な諸関係やメディアの形式に目を転じるべきだろう。この種のテクノロジーは、政治的な表象の次元とは別に、人ぴとの「知覚の形態」や「まなざしの構造」や「思考の様式」など、社会的な経験を可能にする〈場〉そのものを構成している。
 われわれはこの種のテクノロジーとの相関で記憶の領域に照準してみるぺきなのである。国民国家のリアリティというのは、ある想像力の形態が生みだす一つの効果であるとすれば、そのような想像力の形態を浮上させる社会的な〈場〉そのものについて考えてみる必要があるのだ。[p.53]



社会的なキタ━(°∀°)━!


先生の続けて曰く:

この問題設定は、国民国家を準拠点とする思考だけでなく、そういう全体性を保証する存在そのものへの疑問をふくんでいる。それは一体いかなる意味において存在しているといえるのか。それは最後に弁証されるはずのものなのに、どうして最初から代補され、個々の機能を確定するための保証人や構造となっているのか。そこには、システム論における構造-機能主義の枠組が、歴史の領域に投射され、転写されているといえよう。[p.53]

ごもっともである。


ではどうしましょう。


さらに続けて先生の曰く:

[‥] 記憶の政治的な文脈を相対化するだけでなく、その記憶を支える知覚の形態やまなざしの構造や思考の曲率を相対化することが大切ではないだろうか。すなわち、記憶がいかなる社会的な〈場〉と相関しており、そのなかで諸々の政治的投機や解読がいかにして可能性を宿しうるようになるのか、そのことを問わねばならないのである。



思考の曲率キタ━(°∀°)━!






おなじ主張が、73頁で反復されている。

[p.73]

つづけて、

[p.73]


75頁では、ついに一段落のなかで 反復される:

[p.75]






社会学における自然発生的社会学