お買いもの:古田徹也(2022)『このゲームにはゴールがない:ひとの心の哲学』

カヴェル月間。


  • 第一章 他者の心についての懐疑論
  • 第二章 懐疑論の急所 
  • 第三章 懐疑論が示すもの
  • 第四章 心の住処

章によって随分と分量のバラつきがある

2024年11月追記

この本を使った読書会があるとのこと。

【渾身の質問を考える!】平日夜の読書会──このゲームにはゴールがない

〈スケジュール〉 2024年11月14日〜12月12日、計5回、20時〜21時

  • 第1回:2024年11月14日(木)20時〜21時
  • 第2回:2024年11月21日(木)20時〜21時
  • 第3回:2024年11月28日(木)20時〜21時
  • 第4回:2024年12月5日(木)20時〜21時
  • 第5回:2024年12月12日(木)20時〜21時
    ※ 第5回までに渾身の質問を考えることができなかった場合は第6回を12月19日(木)20時〜21時で開催予定です。
  • 〈場所〉 Zoom(オンライン)
  • 〈参加費〉 1,910円
https://ap241114.peatix.com/view

はじめに 013

書籍の構想 [016]

  • 本書は、主としてそのカヴェルの議論と、彼が決定的な影響を受けているルートウィヒ・ウィトゲンシュタイン…の議論を交互に取り上げながら、懐疑論を手掛かりにして、ひと(ひとひと)の心というものの本質的な特徴を探究するものだ。
    • まず第一章では、「他者の心についての懐疑論」の内実を、「外界についての懐疑論」との比較の下で輪郭づける。
      その過程で、他者の心中――心のなかで本当は何を感じたり考えたりしているか―― についての懐疑論こそが、生活上の具体的な煩悶としばしば絢い交ぜになったかたちで展開される、最もリアルで深刻なタイプの懐疑論であることが確認できるだろう。
    • そのうえで第二章では懐疑論の急所を突くウィトゲンシュタインの議論と、それに対するカヴェルの解釈の道筋を辿る。
      まず確認するのは、ウィトゲンシュタインが独自の驚くべき視角から懐疑論の問題に切り込んでいるということだ。彼は懐疑論に対して、我々は他者の心を確実に知ることができる、という風に反論するのではない。そうではなく、「私は自分の心中は確実に知っているが、他者はそれを推測することができるだけだ」という物言い自体に混乱が見られる、と指摘するのである。
      この章では、「規準」および「文法」という、ウィトゲンシュタインの議論で頻出する概念をめぐるカヴェルの解釈を追跡しながら、懐疑論を論駁するのではなく)分析する彼らの議論のポイントを浮き彫りにする。
    • 次に第三章では、まず前半において、懐疑論の言葉は実のところ主張にまで達しておらず、自分自身に対してさえ意味を明確にできていない、というカヴェルの主張を見ていく。
      そして後半では、にもかかわらずカヴェルが、ウィトゲンシュタインの「規則のパラドックス」などを参照しつつ、懐疑論のある種の自然さを強調している次第を跡づける。
      カヴェルは、懐疑論をたんなる混乱した思考の産物として片づけるときに見落とされる重要な事柄を浮かび上がらせている。そしてその事柄こそが、〈懐疑論は理論ではなく悲劇である〉ということの意味に直結しているのである。
    • 最後に第四章では、他者の心について、あるいは、人間の心というもの一般について、ウィトゲンシュタイン自身が何を論じ、何を示唆しているのかを探る。その道筋は、他者の心についての懐疑論はそもそも乗り越えられるべきなのか、また、人間の心の特徴とはどのようなものであり、その〈透明ならざるもの〉がなぜ我々に必要なのかを問うものとなる。
  • こうして本書は、自然科学とも社会科学とも異なる観点から、人間の心とは何かに迫っていく。また、同時に、人間が互いにかかわり合いながら生きるということの根本的な意味を問い直していく。

第一章 他者の心についての懐疑論


第三節 日常の生活に息づく懐疑論
  • [34] 「考えている私の存在(あるいは、欺かれている私の存在)が絶対確実な真理だと本当に言えるかどうか、また、仮にそう言えたとしても、そこから外界の事物の実在を演繹できるかどうかということは、本書のテーマではない。
    ここで考えるべきなのは、前節で跡づけた外界についての懐疑論は、他者の心についての懐疑論と同じものなのかということである。/この点を明らかにするために、他者の心についての懐疑論が一般にどのようなものとして輪郭づけられるかを、まず確認しておこう。」

第二章 懐疑論の急所 049


第三章 懐疑論が示すもの 114

でかい。

第二章末尾における予告

  • 111(02) 次章では、まず前半において、懐疑論の言葉は実のところ主張にまで達しておらず、自分自身に対してさえ意味を明確にできていない、というカヴェルの議論を追う。その過程で、
    [1] 我々が規準を共有して互いに同調しているという事実こそが我々の相互理解の条件であること、そして、
    [2] 懐疑論者はこの同調に基づく生活形式にただ乗りしようとしている、という点を確認する。
  • 111(03) そして後半では、懐疑論のある種の自然さをカヴェルが強調する次第を跡づける。彼によれば、懐疑論は我々の相互理解の条件を無視したナンセンスな立場ではなく、むしろ、この条件から自然に生まれるものだという。