@成城大学
http://d.hatena.ne.jp/contractio/20091202#p1
日米3つのロボット工学ラボのビデオデータをみながら4時間お喋り。楽しい。
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日米3つのロボット工学ラボのビデオデータをみながら4時間お喋り。楽しい。
tasanoさんにいただいた宿題の露払いも兼ねまして。
外延 | 僥倖 | 外挿 |
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〔論〕 ある概念に対応する事物ないしその集合。例えば「動物」の外延は人間・犬・猿など。 | ( 名 ) スル |
( 名 ) スル 〔extrapolation〕
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参考文献:
こんなときってなんていう?―おうちのなかで (あいさつ絵本)
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こんなときってなんていう?―おそとであそぼう (あいさつ絵本)
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このエントリには、まとめ1817 をめぐって、Twitter において id:heis101さん および id:inflorescenciaさん との間で進行中のディスカッションへの寄与のために、私の見解いくつかを記す。 なお、これはもっぱら お二人──および、早々と戦線離脱を宣言済みの trickenさん(id:gginc)──に 宛てたエントリであり、周辺事情の解説は行わない。
まとめ1817には 重要な駒として、
などの言葉が頻出する。私自身は──この議論の前提が受け入れがたいと考えていることもあり──これらの言葉を共用するかわりに、直感的には被るといえそうな言葉として、「わかる」や「やりとり」という言葉を、ヴァナキュラーな仕方で──つまり、これらの言葉になるべく無理をさせない形で、常識的直感の及ぶ範囲で──用いることにしたい。もちろん引用・参照においてはこの限りではない。
私たちは、だれかとやりとりしている際に、それがうまく進んでいない、と感じるときがある。さらにそれが、自分と相手とである言葉の使い方が違うせいかもしれない、と感じるときがある。そしてさらに、こうした事態に対して、使っている言葉や表現が指すものを 具体的な例示を通してはっきりさせようと努力することを選ぶ場合があるかもしれない。これらは、(いつもそんなことが起こるわけではない、という意味で)特殊だけれども、ありふれた事柄ではあるだろう。
中には、こうした経験を踏まえて、次のように主張するひとがいるかもしれない。
言葉遣いの違いのせいで、やりとりがうまくいかないことがある。この事情は 対面だろうと論文だろうとTwitterだろうとかわらない。だから──もしもわかり合いたいのであれば──、そこにおいて、綿密な概念整備が必要である。
これは、賛同するか否かはべつとして、「わけのわからない」主張ではないだろう。
ところで、右の引用文も、一見するところ これに似たことを述べているように見える。が、そうではない:
2が余計なのである。
直前に見たとおり、3は1からいえるのだから、3をいうのに2は必要がない。 また、2はコミュニケーション一般に妥当するウルトラな主張として述べられているが、1から2を直接導くことは出来ない。つまり、いかなる権利によって このような異様な拡張が可能であるのか、trickenさんは何も述べていない。
「思弁は(アーキテクチャのレベルで)事故を起こさないから」と述べられており、これが2(が成立していないように見えること)の「根拠」を与えているかのように読めるが、しかし、そもそも主張2が成立していなければ、これを言う意味がないのだから、まず2の擁護がなされるべきである。
「実は対面会話の場でもまったく同じことが起こりうることについて自覚し批判的である人物というのはそれほど多くないだろう」と言うが、これも常識的な直感に反する主張ではないかと思う。最初に述べたとおり、普段の生活の中で 言葉遣いの違いに敏感になることは──さらに、「自覚的に」そのことに配意して振舞うことは──誰にでも時折はあるだろう。うまく配慮できずに失敗することもあるし、配慮すべきだったことにあとから気づくこともあるだろうが。
「常識に反する主張を述べてはいけない」という道理はないが、しかし、常識に反する主張には 釈明が必要だろう。だから、trickenさんに対しては、まず【T2:対面だろうとblogだろうとtwitterだろうと人は対話に失敗し続けている】
というウルトラな主張を、ディフェンスしていただくことを要求してもよいだろう。これが私の最初のリクエストである。>trickenさんへ
[1-1] では、【T2:対面だろうとblogだろうとtwitterだろうと人は対話に失敗し続けている】
とどうして言えるのか、を問うた。次に、このように主張することの別の問題を指摘する。
私たちは──再び確認すると──、誰かとやり取りをしているときに、言葉遣いのせいで やり取りが上手くいかない、と感じるときがある。しかし、あたりまえのことではあるが、
ならば、「互いに指示する実体と,それを言語化した表現がしばしば一致しない」こと
を「コミュニケーション」に関連付けようとする人には、次のことが問われてよいはずである:
「互いに指示する実体と,それを言語化した表現がしばしば一致しない」ことことがわざわざ述べられているのだから。おそらく 1817 に先行する どこかにおいて、それを述べるべき何らかの事情が trickenさんにはあったのだろう。だとすれば trickenさんは、この事情に関連付けて、Q1 に対して 何かを語れるはずである。
ところが、【T2:対面だろうとblogだろうとtwitterだろうと人は対話に失敗し続けている】
という主張は、まさにこの問いを遮断する。もしも私たちが(一見うまくいっているように見えたとしても)実はいつも 失敗しているのだとすれば、「いつどのような?」などという問いを問う必要がない、ということになるから。
【T2】 を主張する者は、しかし、その代償を負うことになる。
つまり、
のである。
trickenさんはもちろんのこと、1953 における inf.さんも heis101さんも、こうした土俵の上で スペキュレーションに興じているように、私には見える。
それはそもそも、【T2】のようなウルトラな主張を前提にしているから追い込まれる罠なのであって、それをやめれば、1953 のような仕方で考える必要のない問題だろう。
「表現に対する指示対象の不一致のせいで対話は失敗する」という主張は、やりとりを「言い当て」だと考えているように、私には聞こえる。
しかし、「言い当て」は特殊な営みである。たとえば次のようなやり取りは、明らかに言い当てではない:
【E1】
- A: おはよう
- B: おはよう
そうではなくて──いままさにこのブログを読んでいる人すべてが理解できるはずのことであるが──、これは「挨拶をしている」のである。私たちは、この↑やりとりを、なんの推論もなしに理解できる*。それだけでなく、しかるべき時機にしかるべき仕方で、自分でもおこなうことが出来る。
しかし/そして、もしこの「挨拶」のやりとりが失調したときには、そこでなされるべきことは、これまた明らかに、「表現の指示対象」を調整することではない。(「おはよう」は何も指示していないのだから。そうではなくてそれは、挨拶なのである。)
【E1】について私が言いたいのは、「このやりとりは本当に成立している」ということではない。そうではなく、「本当には このやりとりでは相互理解は成立していない」
などと誰かが述べたなら、それは 意味がわからない ということである。
さて。【T2】はユニバーサルな主張だから、反例を一つあげれば反論できる。つまり私はいま反論を行い終えた。