ルーマン信頼論を巡って:お返事 その2のその1

日が変わってしまいましたが、id:hidex7777さんへのお返事、続きです[id:hidex7777:20040212#p1/id:hidex7777:20040214#p1]。

信頼―社会的な複雑性の縮減メカニズム

信頼―社会的な複雑性の縮減メカニズム

ここでの準拠問題は:

  • [H1-2]:著作『信頼』と論文FTCは連続していない。
    =<trust/confidence>差異は、<人格信頼/システム信頼>差異とは異なる。

という点について、

  • [Q1]:『信頼』isbn:4326651202「FCT」は、首尾一貫した解釈ができるのか?
  • [Q2]:「FCT」は、首尾一貫した解釈ができるのか?

という二つの側面から考えてみること、です。
どちらから話題にしたものだか迷うところながら、示すのがより難しい[Q1]のほうからいきましょう。


【『信頼』と「FCT」】の関係について、hidexさんと酒井の 解釈の相違は──hidexさんご指摘のとおり──明確です。hidexさんの読みでは、『信頼』と「FCT」には、次のような概念関係の違いがある、ということでした。すなわち:

schema_hidex

他方、私はこう読んだわけです:

schema_sakai
パーソナルな信頼 システム信頼
馴れ親しみ
trust confidence
familiarity
『信頼』 「FCT」


そこで以下、まずは『信頼』(の読み)のみに、議論をしぼります。
なにしろ私としては、この↑ように読んでしまったわけで、「どうしてhidexさんがそう読んだか」を想像するのは、ちょっと難しいところがあります(w(「お互いさま」でしょうが)。 そして、「なぜ(/いかに)自分がこう読んだか」を示すには、当然ながら、実際に著作『信頼』を参照しながら、読みの正当性・適切性を示さなければなりません(これもお互いに)。 ほんとうならば、ここですぐさまそのような「解釈談義」に入らねばならないところですが、目下その いとま もないので、ここは搦め手で、「決定的とはいえないが、なんとなくもっともらしいかも」と思わせるかもしれないようなジャブをいくつか放つことで、当座の責めを塞ぎましょう。(なにしろ目下クリティカルなのは、とりあえず「confidence」概念の解釈なので、続けて[Q2]について論じれば、この不十分さはかなり低減されるはずですので。〔書きました→id:contractio:20040218#p1〕)



[弱い異論:その1]

一つの手がかりは、 hidexさんのレジュメの中にあります。

ここで「自由」「人格」という概念が持ち出されていることに注意して欲しいが,つまりこの期待は人格帰属が可能であることを前提している.制度的に自由でない行為は人格帰属を行うことができず,したがって人格信頼も生じえない.システム信頼は人格信頼の発生条件と相関している.無気味な=自由な他者と共にあることは,世界観の亀裂に堪えることであり,したがって社会的次元における複雑性への対処戦略としてシステム信頼が要請される.「人格的な信頼は,他者がはっきりとした資格を持つようなタイプのコミュニケーションに機能的に限定されるようになる」(Luhmann 1973=1990: 90).
id:hidex7777:20040212#p3


この要約には(おおむね*)異論はありません。
しかしここでhidexさんが 「システム信頼は人格信頼の発生条件と相関している」とまとめてみせてくれた事態は、同様にまた「人格信頼はシステム信頼の発生条件と相関している」ともまとめられる事態のはずです。

贅言すると、「制度的に自由でない行為は人格帰属を行うことができず,したがって人格信頼も生じえない」以上、それは「制度」をアテにしている、ということになるはずです。

そうであるからには、そこから導ける概念関係は──【〈パーソナルな信頼/システム信頼〉は「階層的関係」にある】ではなくて、むしろ──【〈パーソナルな信頼/システム信頼〉は〈信頼〉の二つのモードである】という(私が描いた)ものになるはずではないでしょうか。これが一点。

*「おおむね」と書いたのは、「社会的次元における複雑性への対処戦略としてシステム信頼が要請される」という文章が、あたかも「社会的次元における複雑性への対処戦略」が、「システム信頼」のみに関わっている──つまり「パーソナルな信頼」には関わっていない──かのように読めなくもないからです。もしこの文章がそのつもりで書かれたものであるのならば、私はそれには賛成できません。(この本isbn:4326651202 のサブタイトル「社会的複雑性の縮減のメカニズム」は、「システム信頼」にのみ関わるのではなく、タイトルとなっている『信頼』に──つまり「パーソナルな信頼システム信頼」の双方に──係るものですから。)

[弱い異論:その2]

 『信頼』という著作は──非常にゆるい・抽象度を落とした解釈のもとで──、<パーソナルなもの/インパーソナルなもの>の区別を論じた著作だと読むことが可能です。ところでごく「常識的」に考えて、<パーソナルなもの/インパーソナルなもの>は相関関係にあるはずで、相互に一方は他方をアテにし(あっ)ているはずです。ルーマンにおいて、このテーマは、ごく初期から一貫して──「分化」とか「相互進化」とかいった術語でもって──扱われてきたものです(ex. 『制度としての基本権』(1965 isbn:4833221438); そして──ついでにいえば──、そうである以上、このテーマは、ルーマンに特に「オリジナル」なものではなく、ごくごくありふれたものだと思います)。
 ところが、hidexさんの「階層図式」は、この点に・直接に、抵触します。つまり、このhidex図式は、<インパーソナルなもの>が<パーソナルなもの>という土台の上に築かれる、と述べている──そうであるからには、<パーソナルなもの>は<インパーソナルなもの>には基づかずに築かれる、と述べてしまっている──からです。そんなわけで私には、hidexさんの解釈は「大胆な」ものだと思われる、というわけなのでした。

他方、私のほうの図式は、<馴れ親しみ>をバックグラウンドとして、<パーソナルな信頼/システム信頼>が「分化」する、というものなので、上記のテーマに(も)「馴染む」というわけです。


以下は余談ですが。
hidexさんが 『信頼』を、上記のように読んでしまったことには、「同情」の余地がなくはない、と、私の乏しい想像力を振り絞って考えてみることはできます。それは「まったく理解不可能な読解」というわけではないかもしれません。そのように読んでしまったとしたら、それは、『信頼』を書いた頃のルーマン現象学の尻尾」をまだつけたままだったこと、がその理由のひとつであるのかもしれないからです。そして、そのことと相関して、『信頼』が──これはルーマンの著作のなかでは比較的よく読まれているものだと思うのですが──もしもルーマンの著作のなかでは“相対的に読みやすい”ものであると(受け取られていると)したら、その理由の一つはまさに、パーソナルな信頼から出発して(、その亀裂からシステム信頼が生じるかのように)書かれている、ということにあるのかもしれません。しかし──もしもそうだとすれば──、それは、やはりこの著作の「弱点」なのです(弱点は長所であり、しかし/やはり弱点である、というわけです)。 そして「同情」は、しかし/やはり「賛同」にはならないのでした。

とりえあえず──ふたたび夜も更けましたし──、いったんここで文を閉じることにします。