追記

ここで「自己」という言葉を使うのがキモチわるければ、使わなければいい。(使わなくても話はできるし。‥‥だけどそれは、「言葉の問題に過ぎない」のではないか、と。)

なるほど。(しかし「自己」という言葉をキモチ悪がらない人の気持ちがわからない……)
http://d.hatena.ne.jp/hidex7777/20040416#p1

気持ち悪くなるのは──気持ちはわからんでもない気はしますが──、「自己」というものに(あらかじめ)格別な重みをかけているからでは。

たとえばカーモトさん(や、そのツイヅイ者さんたち)は、そういう「投影」*1をしているように見えるわけですが。

……つーかぼくウザイ??そーですか失礼しました!!

いや、そうじゃなくて。
経験的なリファレントなしにこのテの話をするのがしんどいんです。

そういうことができるのは──そういうことをやってあまり過たずに議論を進められるのは──、特殊な理論家的特性をもったごく一部の選ばれたひとだけだろう、と私は思って(おり、そして私自身は、そういうものを欠いている、と思って)いるので。
そして、そういう過大な要求を己に課さずともやっていける、というところが──哲学とは異なる──社会学いいところ*2、だと思いもするので。

 

*1:ルーマンの語用に即してテクストを読むのではなく、「自己」という語に対する自分の「イメージ」を、ルーマンに読み込んでしまう、という「投影」。

*2:具体的なやりとりをもってきて、「ここがこうなってますね/そうなっていませんね」というふうに議論を進めればよいところがよい。