いやいやいやいや。
「Xについての意識」についての意識
という心的事象が創出したときに、それをなんで他のいかなるものでもなく「自己」であるとみなす(ようなオペレーションが創出される)のかといえば、帰属したい(から)なんではないですかね
http://d.hatena.ne.jp/hidex7777/20040416#p1
「他のいかなるものでもなく「自己」であるとみなす」んじゃなくて、オペレーションの連鎖が「自己」なんだってばw。
「なんで?(=根拠)」とか「みなし」とかいうもんは、──オペレーションの連鎖が相当に複雑化したうえで、しかも相当に特殊な条件でしか登場しない、いずれにしても──あとからしか登場しないなにものかなわけで。そういう「あとからの倒錯」を、「根拠」と呼ぶのです。
オペレーションの下には──上にも 外にも──「なにもない」のですよ。
ここで「自己」という言葉を使うのがキモチわるければ、使わなければいい。(使わなくても話はできるし。‥‥だけどそれは、「言葉の問題に過ぎない」のではないか、と。)
そのような「言葉の定義」がどうやって発生しているかに関心があるのでした
「倒錯によって」=遡行的に、でしょうな。
かかる諸オペレーションが「連鎖している」という観察があってはじめて「自己」−「同一性」が観察されるわけで、
そうですな。
だから、「自己」の話と「自己同一性」の話は 違うハナシなのだ、というわけです。
てゆか 経験的リファレントなしに話を進めるのが しんどいので、
おじさんそろそろ議論から降りますよ。
あとはお若い方にお任せして‥‥ね?
おーほほほほほほ