涜書:上谷「ドロシー・スミスの「フェミニスト社会学」」

朝食。上谷博論再訪。

三章と四章。独立した章としての議論は理解できたと思うが、2章とのつながりがよくわからず。5章以下を読めばわかるのかな?



p.62 の図、AとBの間の矢印は、上向きじゃなくてよいのか?

というの↑とも関係するが、

「テキストとそのリファレントを<表象する/表象される>関係として捉えるな」(大意) という主張は理解できる。が、そこから一歩進んで リファレントの「産出」のほうを主題化する際に 「解釈枠組」(なるもの)を持ち出すと、「解釈枠組A」によって「対象a」が──「解釈枠組B」によって「対象b」が──産出される、という議論に見えてしまう。
 著者の議論の焦点が 「対象産出のされかた-の-その-如何にして」のほうにある、ということまでは理解できたつもりでいるのだが、しかし、上記の議論──を私が正しく理解しているのだとして、それ──をベタに受け取ると、それは、著者自身の基本主張

「スミスの議論の眼目は、ノーマルな科学的知識のオルタナティヴとして フェミニズム的知識を打ち出そうとした、というところにあるわけではない」(大意)

とバッティングしないか。

フェミニズム的な視点を重ねあわせることにより、社会的知識の産出の(或る)あり方が照射されるところに意義がある(のであって、フェミニズム的な視点が、他の観点より 優れている わけではない)」(大意)という主張は、それとして理解はできるのだが。しかし*。



ともあれ、著者の基本的な主張と中心的な議論とに齟齬があるように見えるときには、まずは自分の理解を疑ってみた方がよい、という俺様経験則に従って、とりあえず疑問をかかえつつも先を急ぐことにする。



* もう少し丁寧にいうと、問題はおそらくこういうことである:
著者の主張が──私なりの言葉で簡略的に定式化してみると──「<リファレント>を<リファレントの産出手続き>から切り離さずに捉えよ」
=「<産出物/産出手続き>をペアとして扱え」
というものであるのなら、私はこの主張を肯定することができる。ハナシが難しくなるのは──そこからもう一歩進んで──、その<産出手続き>が「解釈枠組」と関連づけて論じられるところであり、この「一歩」(のどこか)で「一般化」が生じていないか。 ‥‥ということ。
もしも生じているとしたらそれは、(二次の観察者である)スミス=著者においてなのか。それとも(一次の観察者としての)観察対象=被観察者においてなのか。あるいはこの論考を読んでいる(三次の観察者としての)私が──著者の主張を読み損なって──一般化してしまっているのだろうか。

あれ? ちっとも丁寧になってないや。