【追記】

速攻のお返事ありがとうございます。http://d.hatena.ne.jp/teratsu/20040505#p7

で、僕としては、データになるかどうかが判断の分かれ目ですので、

──ということで、理解できました。
この意味でなら、確かにおっしゃるとおり、「一次資料としてみるか、二次資料としてみるかが、[‥]「ズレ」」ということになるかと思います。

で、id:contractioさんの立場については、(比較社会論的スタンスから)未開社会における「法の機能」を考える上で採用される(べき/であろう)資料=素材として、ホーベルの著作を捉えているのではないかと、こちらで推測いたしました。

微妙に訂正させていただきますと、ホーベルの著作を手に取ったのは、「法人類学は、未開の法(なるもの)をどのように扱ってきたのか」ということへの関心からでした。「対象」への関心ではなく「手つき」への関心、といってもよいかもしれません。

そのために、古くて-しかも-定評のある(/あった) この本を選んだ、というわけです。
もっとも、ほかに日本語で読めるものがあまりなかった──そして、日本語で読める「法人類学」とタイトルについた(古い・数冊しかない)文献については読んでしまっていた──という事情もありますが。
もちろん他にも理由はあり、たとえば、そもそも私は、法学にも人類学にもなじみが薄いので、古いものの方が「距離をとった」読書がしやすい──また「古いトピック」については(法学・人類学双方の)業界筋で議論が「熟れて」いるでしょうから、その点で、人に教えを乞いやすい──と踏んだから、でもあります。
その意味では、teratsuさんは、見事に私の「狙い」に「嵌って」いただいてしまった、ということになるのですが(^_^)。──ありがとうございます。
ちなみに、その背後には──あるいは前には──ルーマンの著作『社会の法』への関心があります。(そのことはカテゴリー名の[RdG]で示してはありますが。) 法人類学の古典を読む作業は、『社会の法』読解-の傍らでの・への予備的な-作業ではあります。
その意味で確かに、ホーベルの著作は、私にとって「(法人類学の「手つき=作法」についての・歴史的な)一次資料」です。したがって──おっしゃるとおり──、

その当該バイアス自体も、<当時>を表象してくれる重要なデータである

ということなのでした。
そんなわけで、古い法人類学の文献から順に「有名どころ」文献をたどっていこうとして、その一つ目としてホーベルの著作を手に取ったという次第なので、「ライティング・カルチャー」ショック にたどりつくまでには、まだ相当の時間がかかりそうです(^_^)。

説明になってないかもしれませんが、とりあえず。

いえいえ。(必要なだけ)じゅうぶん丁寧に敷衍していただいたと思います。ありがとうございました。