エリアス『文明化の過程』

せっかく久々に再読し(ちゃっ)たので、ルーマン『パッシオンとしての恋愛』読書会の資料として、ちょい長めの引用をしてみる私♪

 十七・十八世紀の絶対主義的宮廷社会における結婚は、その時代の社会構造のために初めて女性に対する男性の支配がかなり損われることによって、特殊な性格を帯びている。この社会では女性の社会的地位は、男性のそれとほとんど同じくらい強い。社会的考え方は、はなはだしく女性によって左右されている。それまでは夫の婚姻外の異性関係のみが社会的に合法とみなされており、社会的に「弱い性」である妻の側の婚姻外の関係が多かれ少なかれ非難すべきものとされていたのに反し、この社会では男女間の社会的力関係の移行に伴って、妻の側の婚姻外の関係もある程度は社会的に合法とみなされるようになる。
 絶対主義的宮廷社会における女性の社会的権力の掌握が、あるいは最初の女性解放とも言えるこの事実が、文明の進展、差恥心・不快感を感じる範囲の拡大、個人に対する社会的管理の強化などという事実に対して、一体いかなる決定的影響を及ぼしたかについてもう少し正確に示すことが必要であろう。他の社会集団の権力掌握や社会的勃興が 新たな衝動規制をすべての人々にとって必然たらしめ、それまで支配者層に課せられていた抑制度と被支配者層に課せられていた抑制度の間のいわば中間の抑制度を促進するのと全く同様に女性の社会的地位の上述の向上は、図式的に言えば、女性にとっては衝動制限の緩和を、男性にとっては衝動制限の強化を意味した。同時にそれは両性にとって、相互の交際における情感の新たな、いっそう厳格な自己規制の要請を意味したのである。
 ラ・ファイエット夫人は、彼女の有名な小説『クレーヴの奥方』の中で、奥方がヌムール公に首ったけであることを知っている夫に次のように述べさせている。

「わたしはあなただけを信頼していたい。それがわたしの心がわたしにとることをすすめている道であり、理性もまたそれをすすめている。あなたの気性ではあなたを自由にまかせておく方が、何か規律で縛る場合よりもあなたにはるかに確かな制限を加えることになるのだから。」

 これは当時の状況が男女両性に課した自己規制の独特なうながしの一例である。夫は妻を力で抑えることができないことを知っている。妻がほかの男を愛しているからといって、夫は叱りつけたり、わめいたりはしない。かれは夫権を引き合いに出すこともしない。もしそうするとしても、世論がそれを支持するはずはないであろう。したがってかれは自制する。「わたしはあなたを自由にまかせよう。しかしそれによって、何らかの捉や規律で縛るよりも、あなたにはるかに制限を加えることになると思う。」 かれが妻に向かって言うのはこうした言葉である。換言すれば、かれは自分に課しているのと同じ自己抑制・自己規制を、妻にも期待しているのである。これこそ、男女の社会的平等化について生じた新しい状況の特徴を示すのに極めて適切な一例である。なるほど妻にこうした自由を与えるのは、根底において個々の夫ではない。自由は社会構造自体によって根拠づけられている。しかしそうした自由は、同時に新しい行動様式を要求する。それはかつてなき特殊な葛藤を引き起こす。しかしともかく、こうした自由をほしいままにする婦人たちがこの社会にはずいぶんといたのであった。当時の宮廷貴族階層においては、性的関係を結婚にだけ制限することを貴族の身分にふさわしくない市民的態度と感じていた連中が多くいたことを、多数の例証が示している。だが同時にこれらすべては、人間的社会的拘束の特殊な在り方や特定の基準が、いかに直接的に特定形式の自由と対応しているかを明かすのである。
 今日なおわれわれがその使用を余儀なくされている言語形式は、その弾性の乏しさ故に、自由と拘束、ないしは自由と強制というふたつの概念を、まるで天国と地獄のように対置している。なるほどこうした絶対的対置による表現の仕方は、現実に即した近視眼的立場から見れば、往々にしてかなりの正当さを有している。監獄の囚人にとって、監獄の外側の世界は自由の世界である。だがもっと厳密に吟味して、自由という概念を、社会的に絶対的な無拘束と独立の状態と考える場合、他の何らかの状態との対比の場合同様、監獄の内側と外側のいずれの場にも、自由というものは全く存在しない。強力に、あるいは耐え難く抑圧する拘束形式から、それに比べれば抑圧的でないと感ぜられる別の拘束形式への解放というものは確かにある。文明化の過程、すなわち、人間の情感生活が従属している制限の変革、ないしある点ではそうした制限の進歩と言えるものは、種々さまざまな種類の解放と歩みを共にしている。宮廷貴族の館において、夫と妻の居間・寝室が同じような構えをなしていたことによって象徴されているような、絶対主義的宮廷社会における婚姻形式は、その点に関する多くの実例のひとつである。夫人は絶対主義的宮廷社会においては騎士社会におけるよりも、外的強制からはるかに自由であった。だが彼女が宮廷社会の純化様式や作法法典に従って、自己に課さねばならなかった内的強制や自己抑制は、彼女の「解放」の場合同様、宮廷社会固有の構造の特殊性に基因するものであったが、そうした内的強制・自己抑制もまた夫の場合同様、夫人にとっても騎士社会に比べてはるかに増大していたのである。
 そして同様のことが、十九世紀の市民的婚姻形式と十七・十八世紀の宮廷貴族の婚姻形式とを比較する場合にも見られるのである。
 市民階級は全体として、十七・十八世紀においては、絶対主義的身分社会機構の抑圧からは免れていた。市民階級の男も女も、身分社会における第二階級としての貴族たちが隷属していたような外的強制からは、一切免れていた。しかしその進歩の故に、市民階級が解放に必要な社会的勢力を得ることになった商業上・金融上のからみ合いは、いっそう増大していた。この点に関しても、個人に対する社会的拘束は、以前に比べてはるかに強化されていた。市民社会の人間たちにかれらの職務に応じて課されていた自己抑制の図式は、宮廷的職務が衝動処理を調整していた自己強制の図式とは、多くの点で異なっていた。ともかく情感処理の多くの面にとって、市民的職務、なかんずく商業生活が必要として生み出した自己抑制は、宮廷的職務が要求していた自己強制よりもはるかに強かった。社会的発展の状態、いっそう正確に言えば、市民階級の勃興につれて普遍的生活様式となった職務が、なぜ性生活の特に厳しい規律を要求するようになったかは、それ自体ひとつの問題である。十九世紀における衝動処理の特殊な調整と社会構造との間の関係は、ここでは問題として除外しなければならない。いずれにせよ、市民社会の基準からすれば、宮廷杜会で支配的であったような形の性生活の規制や婚姻形式は、極めていい加減のものに思われる。市民社会の世論は、婚姻外の一切の異性関係に対して手厳しく批判的である。もちろん、市民社会においては宮廷社会と異なり、夫の社会的な力は妻のそれに比してはるかに強力であり、したがって婚姻外の異性関係のタブーが夫によって破られた場合、妻の側の同様の過失に比べて大抵の場合は大目に見られがちである。
 しかし夫婦いずれの過失も、公的社会的生活から完全に除去されなければならない。宮廷社会における過失とは異なり、社会の舞台裏に、秘密の領域に完全に封じ込められなければならない。しかもこのことは、個人がみずからに課さねばならない抑制・自己規制が増大したことを示す多くの実例のひとつにすぎない。(邦訳上巻、p.358-361)

ついで。
つづけてエリアスさんの曰く;

 文明化の過程は決して直線的に進行するわけではない。ここでさしあたり示されるように、変遷の一般的趨勢はなるほど解明できるが、個々の点では文明化の道程においてさまざまな紆余曲折があることは言うまでもない。その流れをある程度長期にわたって考察するならば、武器、すなわち戦争や物理的暴力の脅しによって直接押しつけられた強制のたぐいが次第に数少なくなり、逆にこんどは、依存や隷属の形態が増大するにつれて、自己抑制の形で情感生活の規制ないし統制が行なわれるようになった過程をはっきりと読みとることができる。 こうした変遷は、もし各時代における上流階層、したがってまずさしあたって武人ないしいわゆる騎士階級、それから宮廷人、さらには有職の市民階級の男たちを例にとって考察するならば、最も直線的な形で現われてくる。 だが、もし歴史という多層な織物全体を考察するとき、この流れは限りなく錯綜していることが分かる。各段階において多様な変動があり、内的・外的制約の促進、あるいは後退が至るところに見られる。そのような変動の考察、とりわけ同時代における近視眼的考察は、変遷全体の一般的趨勢を見る眼を曇らしがちである。個人の本能生活に、また男女関係にも課せられていた制約のそうした変動の一例は、今日なおすべての人々の記憶に新しい。戦後の時期において、戦前と比較していわば「風俗の頽廃」と名づけられるような現象が起こったという印象が持たれている。戦前、人々の行動に課せられていた一連の制約ははるかに弱くなり、あるいは完全に消滅してしまった。以前禁じられていたいくつかのことが、現在は許されている。その変動はこのように近くから見れば、これまで証明してきたこととはむしろ逆の方向に向かっているかのように見える。社会生活によって個人に課せられている強制が、弛緩に向かっているかのような印象さえ与える。
 だが、いっそう正確に見るならば、ごくささいな後退、すなわち、歴史的変動の多層性によって全般的過程の各段階内部に繰り返し起こりがちな比較的小規模な変動のひとつが、ここで起こっているにすぎないことを容易に認識できる。
 一例を挙げるならば、水浴風俗がそうである。[以下略](邦訳上巻、p.361-362)

アンダーライン(色背景)とボールドは私が勝手にいれました♪