![責任と正義―リベラリズムの居場所 責任と正義―リベラリズムの居場所](https://images-fe.ssl-images-amazon.com/images/I/41CCWSRSPNL._SL160_.jpg)
- 作者: 北田暁大
- 出版社/メーカー: 勁草書房
- 発売日: 2003/10
- メディア: 単行本
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著者はここで「1980年代以降の日本の社会学」と「社会的文脈主義」を対比させながら論じているけれど、私から見ると、これも一種の同位対立に見える。この点は著者も、「社会構築主義もまた、こうした風土形成の一翼を担った」と指摘することで、両者に通底するものを見出しているようだ。しかしここでの著者(北田)が、一部の「社会的文脈主義」を肯定的に「救済」する方向で両者を見ているのに対し、私は逆に、この両者を通じて見失われた何者かがあるのではないかと思っている。(この点を、ある人は「○○像の貧困」と呼んだのだろう。)
ここはいま少し敷衍していただきたいところ...。「文脈主義」によって社会学が「見失った」ものとは?
たとえば
- 何らかの格律──ここでは、「コンテクスト*を見よ」とか「コンテクストから見よ」とか──を掲げることは、必ず、それによって制約──ここでは記述の制約──が課されることをも意味しているわけですが、そのこと=「コンテクストを見よ」という格律によって[見ることが]できなくなるものを問題にしているのでしょうか、
- 「コンテクストを見ること」によってたくさんのことを語り得るようになり、そうした膨大に生み出される記述によって「それまでは見えていたもの」が隠されてしまう[→見失う]、といったことなのでしょうか。
* まさにこの言葉「コンテクスト」が、何を指すのかしばしばよくわからない、ということこそ、私にとっては──「社会学なテクスト」を読むときに再三にわたってぶち当たり続けている**──たいへんな壁なのですが。ちなみに、直前でcelestialさんが引用しているところをみると──北田さん曰く──:
「社会的な文脈を考察する」と言えてしまうことの問題性−−−定義上無敵である知識社会学的思考の野蛮さに対する自己反省−−をめぐる社会学の再帰的問いが看過されたまま、「社会的文脈主義 social contextualism」とでもいうべきものがあらゆる知の分野に広がっていく事態。
「文脈主義」とは「(無敵の)知識社会学(主義)」のこと、か。
** 「お前はそのコンテクストとやらを、いったいどこから持って来たのだ?」、と。
「お前ひょっとして、コンテクストっていいたいd(以下略)か」、と。
【追記】200420041211 04:07
お返事をいただきました:http://d.hatena.ne.jp/celestial/20041211#p1
お返事にたいする私のコメント:http://d.hatena.ne.jp/contractio/20041211#p3