ロベルト・エスポジト『近代政治の脱構築』

返却は 11/02。

近代政治の脱構築 共同体・免疫・生政治 (講談社選書メチエ)

近代政治の脱構築 共同体・免疫・生政治 (講談社選書メチエ)

  • 訳者によるイントロダクション

第I部

  • 第1章 共同体の法
  • 第2章 メランコリーと共同体
  • 第3章 共同体とニヒリズム

第II部

  • 第4章 免疫型民主主義
  • 第5章 自由と免疫
  • 第6章 免疫化と暴力

第III部

  • 第7章 生政治と暴力
  • 第8章 ナチズムとわたしたち
  • 第9章 政治と人間の自然
  • 第10章 全体主義あるいは生政治──20世紀の哲学的解釈のために
  • 第11章 非人称の哲学へ向けて

またつまらぬものを読んでしまった。

ルーマンへの参照は基本的に一箇所のみ(第II部 第4章「免疫型民主主義」の2節)。
ここをみると、ほかの箇所(例えば92頁)に出てくる「システム論」というのもパーソンズルーマンのそれだということがわかる。

第II部 第4章「免疫型民主主義」2節

訳者さんは「人類学」と訳しておられますが、ここは「人間学」と訳すべきでしょうな。常識的に考えて。
  • レスナー: 人々が 競争しぶつかりあう世界において 破滅的な結末を避けるためには、たがいに触れ合うことなく「隣どうしで生きること」を可能にしてくれる戦略と制御装置が重要だ。
  • ゲーレン: 制度というものは、脆弱な生物である人間が、環境の及ぼすショックや圧力・出来事の偶発性が人に加える重圧から 免れさせるものだ。人を、欠損ある自分自身から逃れさせ、その欠損を埋めること。
    • 制度の側にも柔軟性が必要だが、人間の側にも本能の統制・自己規律が必要だ。

 こうした論理を その極端な結論へと持ち込んだのは、疑いもなくニクラス・ルーマンであった。パーソンズの機能主義と種々のサイバネティクスモデルの統制的パラダイムとが交差する地点に身を置くことで、彼の理論は、近代化の特殊なあり方としての免疫的論理を、きわめて洗練されたかたちで解明している。とはいえ彼自身は、「一連の歴史的傾向は、近代の初頭以来、とりわけ18世紀以来、社会的免疫学を構築しようとする努力が積み重ねられてきたことを示している」(…)と述べるだけでなく、免疫システムが、元をたどれば法と一致するものであって、それが経済から政治までの、社会生活のあらゆる領域へと広がったのだ、とも述べるのである。こうした傾向はすでに、システムと環境の連関に関するルーマンの初期の定義において表明されている。そこでは、

  • [1] 環境によって引き起こされる危険な乱れをシステムによって制御するという問題は、環境に起因する複雑さを単に縮小することによってではなく、むしろ外的な複雑さをシステムそれ自体の内的複雑さへと変換することによって解決されるのだ。

しかし、免疫の手続きによって活性化される内在化のこうした最初の戦略にたいして、ここで、第二のものが付け加えられる。それは、環境の差異をさらにいっそう解消させてしまうような結果を孕んでいる。つまり、

  • [2] システム内部へとすべてを取り込んでしまうこと、言い換えれば、公平なる消去である。

こうしたルーマン的パースペクティヴの進展は、オートポイエーシスの生物学的概念を採用することによって決定されるもので、環境をシステムによって統治する防御的レベルから、環境の圧力に対して自立し独立しているすべてのシステムの内的自己統制のレベルへと、その目標を移行することで成立している。つまりシステムは、それ自体がシステムを組み立てる諸要素となりながら、いっそう複雑な形式へと複製されるのである。このように完全に循環論的な論理が、何であれ外部との経路を断つという結果だけでなく、「外部」という観念そのものを撤回してしまうという結果をもたらすことは明らかである。もしも、民主主義のシステムを危険にさらす矛盾が、結局のところ、システムの免疫装置に脅威をもたらすことで、あらゆる暴発の恐れに対抗する防御反応を活性化することになるのだとすれば、このことは、外部と内部を対立させる矛盾などもはや存在しないということを意味するのである。それは内部に属する外部、つまり内部のたんなる折り返しに過ぎないのだ。だが、それは同時に次のことをも意味する。つまり、免疫システムは自身の伝達を「免疫化した」のだ。コミュニケーションを指示メカニズムのなかに取り込むことで。コミュニケーションの流れ全体は、免疫化のプロセスの自己増殖する投影にほかならない。ルーマンは結論付ける。

免疫システムは、「ノー」を自在に使用でき、つまりコミュニケーションにおいて拒否を駆使できる。そうした免疫システムは その環境とコミュニケーションすることなく作動している。(同書、…)

[…]

わたしたちの再構築のために重要なことは、まさしくルーマンにおいてと同様に、新たな分子免疫学にとってもまた、中心的な問題が、

もはや外的なものからみずからの構成要素を見分ける有機体(…)の能力にではなく、むしろ

免疫システムの内的な自己調整能力にあるということだ。

もし抗原が不在であっても、つまり外的刺激がない場合でも、抗体細胞が作用しているとすれば、このことが意味しているのは、免疫システムが、絶対的に自己充足的な内的承認の網という特徴を帯びているということである。

これこそまさに、近代の幕開け以来、共同体の「感染」のリスクへ向けて放たれてきた免疫闘争の成れの果てである。つまりは、そこから守られるべき外部などもはやない。他者は自己の投影でしかない、というわけである。このことは、免疫システムが空間的にも時間的にも境界をもたないと認めることに等しい。それはいつでもどこにでもある。免疫システムは わたしたちのアイデンティティと一致する。わたしたちはわたしたち自身と同一化し、共同体の混乱から解放される。(邦訳 117-119頁)

[1] については まだ いちおうはルーマンの議論をフォローしようとしているけど、[2] のほうには もう、まったくなんも敷衍がないですな。

なので テーゼ [2] がなんのことを言ってるのか なんもわからん。
そして わからんもんには反論もしようがない。手強すぎる。

なんてこった。
奥さん、これ 2008年の著作なんですってよ?