涜書:ハッキング『表象と介入』

ようやく読みはじめ(られ)る。

表現と介入―ボルヘス的幻想と新ベーコン主義

表現と介入―ボルヘス的幻想と新ベーコン主義

前半部が哲学っぽいはなし。後半部は実験のはなし。
実験の部から読むことにする。

  • ブレーク「本物reals と 表現representations」:

たとえば、哀れかなしい pity poor ヒラリー・パトナム。かつては哲学者達の中のだれにも劣らぬ実在論者であったので、表現representation から抜け出そうと、語の意味を構成する要素のリストの末尾に「指示対象 reference」を付け加えることを試みた。それはあたかもなんらかの強力な指示用の空への鉤〔スカイ・フック=降下速度を落とす装置〕のおかげで、われわれの言語の中にそれが指示する素材そのものを埋め込むことができるようになるかのようであった。だがパトナムはそこにとどまっていられなかった。そして 先験的な懐疑trancendental doubts に取り囲まれ、ある種の観念論もしくは唯名論に譲歩した挙句、辛うじて「内在的実在論者」に落ち着いた。[訳:p.212]

・・・いきなりかっとばしておる。


ところで手に取って思い出したが、「ボルヘス的幻想と新ベーコン主義」というアレげなサブタイトルがついていたために、かつて 手に取るのがあとまわしになったんだよな。そういえば。
原著がとどいてみれば「Introductory topics in the philosophy of natural science」というごく穏当なサブタイトルがついており。


本書後半部分のプログラム:

 ことによると「実在性reality」の観念には全く異なった二つの神話的起源があるのである。一つは表現の実在性であり、他の一つはわれわれに影響を及ぼすもの および われわれが影響を及ぼし得るもの の観念である。科学的実在論は、通常、表現representation の見出しの下で議論されている。今度は、介入intervention の下で議論してみてはどうだろう。私の結論は明白であり、つまらないものでさえある。われわれは世界の中で他のなにかに影響を及ぼすために使うことの出来るものを、あるいは、われわれに影響を及ぼすために世界が用いることの出来るものを 実在的と看做すだろう。介入としての実在性は、近代に至るまでは表現としての実在性と噛み合うきざしさえなかった。17世紀よりこちらでは、自然科学は表現と介入が連動して行った冒険であった。いまこそ哲学がわれわれの過去の3世紀に追いついたときなのである。